そういえば昔知り合いでドビュッシー「ヴァイオリンとピアノのソナタ」評価が不当に低い子がいて、フランチェスカッティなんかで聴いてるからだろ、と思ったのだった。
無論、ヴァイオリニストとして、ジャン・フルニエがフランチェスカッティよりもクォリティが上、というのではない。
この記事
《まずもって、一世代前のコルトーが付加したロマンティシズムを洗い落とす「アンチテーゼとしての存在意義」だったんじゃないか?》
J. P. コラールについて
《たんにザッハリヒでさえあれば有難がる風潮が当時あって、その中で評価されたのでは?》
との偏見を臆面なく述べたけど、フランチェスカッティってヴァイオリンにおけるカザドシュなのでは?偏見だけど。
これはドビュッシーの音楽の微妙さの問題でもあって、「ペレメリ」についても、如何にアバドが凄いといって、どうしてもいっぽうでデゾルミエールを求めてしまう。
ラヴェルにはあまり起きない問題。ラヴェルの場合「即物性」と「象徴表現」との矛盾が少ない。
さいきんドビュッシー「フルート、ヴィオラとハープのソナタ」が脳内でグルグルする。ときどきいつのまにか宮城道雄「春の海」になってる。
脳内グルグルといえば。
探し物が見つからない時グルグルしだすのは、私の場合「夢の中へ」ではない。
「ダンデライオン」です。♪なんで無いの~ん?
琵琶湖疏水の畔を歩きながら 「いとしのエリー」を口ずさみ始めた自分に気付いて、理由が判らなかった。
Aメロの最後に差し掛かった時判明した。歌詞が「疏水~」だった。
ラトルについては、私はバーミンガム市響に愛着がある。ドビュッシー、ラヴェル、メシアン。
ベルリンフィルがピンと来たことがない。「ご苦労様。で?」といつも思ってしまう。
無論、バーミンガム市響がベルリンフィルよりクォリティが上、というのではない。
ラトル/LSO に、ものすごく期待する。
鬼に金棒、ラトルに LSO(踏んでる、再掲)
*1:まあ、その子はヴァイオリニストなので、演奏の側から見た評価というのはあるんだろう。私は曲を飽くまで作曲・造形の側から評価する。