標準ピッチ 絶対音感

標準ピッチについて論じててすら、それは「相対」の話なのだ。

 

短調の曲は 440Hz にし、長調の曲は 442Hz にする、ということがあるらしい。ピッチを変えると表情が変わる。

私自身はそこまで敏感じゃないが。

これはつまり 440Hz に対して 442Hz が「相対的に」明るい、ということだ。

 

以前は絶対音感に自信があった。1Hz 単位とか 1セント単位とかでの分解能*1ではないにせよ、少なくとも「音程」については。

それはつまり、絶対の基準があるとすればそれは私自身の感覚だ、ということ。

ところがある時期、事情で、1年ほど音楽から離れた。より正直に言うと、「音楽」に限らず「人生」から離れたのだが。

その隠遁明け、シューマンのあるピアノ曲耳コピをやった。まず楽器を使わずそらで譜面を書き終わって、打込みのためにキーボードに向かう、という段になって初めて、

 

全部半音低い

 

ことが判明した。

その後、世の中の聴き馴染んだはずの曲が悉く調子はずれに聴こえることが明らかになっていった。

以来私の中には2つの基準が並存する。狂ってしまった感覚を矯正するというのではなく。

片方には昔から私の中で引き継いできた感覚の体系が厳然とあり、もう片方には「現実」が厳然とある。

私の感覚が、絶対どころか、如何に当てにならないか、というより如何に社会的に規定されているか。

世の中で鳴ってる音楽に触れつつ、それを「基準」に、「感覚」を無意識裡に常に微調整し保持するもの、それが絶対音感、ということ。

世の中の音をシャットアウトした環境とはつまり、ズレをチェックできない、「感覚」と「基準」とが諸共に沈下することが起こりうる環境、ということ。

 

標準ピッチは歴史的に、時代が下るにつれて高くなっていった。

バロック時代の「ホ長調」と現代の「ホ長調」とは明らかに表情が違う。

でもいっぽうで、調性の体系全体の中での位置づけ、その中で負わされた「ホ長調の性格」というものがあって、そっちは時代を超えて引き継がれてる筈なのだ。

先の例で私個人の感覚に起きたのと同様に、「感覚」と「基準」とが諸共に動いてゆく、ということが歴史的に起きたわけだ。

 

ちなみに私にとって「ホ長調」とは、郷愁と憧憬が綯交ぜになった、桃源郷の調。「Yes 'To Be Over' イントロの調」なので。

 

薬の副作用でピッチが下がって聴こえる、ということが問題になる。

私自身の経験でいうと、市販の抗ヒスタミン剤で半音下がったことがある。主成分の塩酸ジフェンヒドラミンのせいなのか、他の成分のせいなのか判らない。一度に40錠飲んだ私がいけないのだが。

 

私は音楽を「シェアする」ことに熱心ではないのかも知れない。私のパーソナルな音楽を、理想的にはひとりで、作りたい。演奏などの「場」を誰かと共有するということは、必要に迫られればやるけど、それを目的にはしない、というか。

音の高さに「標準」を設けることは、音楽を現場で共有するときに必要になるもので、パーソナルのためには、究極それは意味をなさないのかも知れない。

*1:Hz で測るのは「比」、セントで測るのは「差」。