自我 虚無

うーん。

昨日のこの記事、「神」を持ち出したのはさすがに不用意だ。

比喩とはいえ。

小学生当時の体験だし、そもそも言語化できる性質の体験じゃなく、今時点の、現世にいて、描写・説明に尾鰭を付けるのを避けられない、とはいえ。

私は「主体」じゃない、私はPCのディジタルデータのようなもので、そのPCのユーザーは私じゃない、という時、もしそこに神(ないしそれに類する存在)がいるのなら、むしろ完全に根本的に救われる。

私はデータなの?ならそのデータを算出してるのは誰?とおおもとを振り向くと、そこにユーザーが誰もいない、完全な「虚無」、というほうが、あの時私の見せつけられた恐怖・絶望に近い。気がする。

 

「意味」だと思ってたもの、私にとって最も「意味」だと思ってた「私」が、じつは「虚無」。

それを見せつけられた瞬間、何が起きるか。「ああ、私は虚無だったんだね、納得」ではない。

その虚無=納得される客体としての「私」の虚無は、それを虚無だと納得している主体としての「私」にフィードバックされる。その瞬間「私が消える」。

「私という現象の根本は何か?」と考えることを突き詰めた結果、その考えること自体が「虚無」になる。

これがつまりあの時の私の「根源的な恐怖」だった。気がする。

それを「恐怖」「絶望」と呼ぶのは、そこから生還できたのち現世から振り返って、のことだけど。

 

うーん。うまく言えない。