わだばクセナキスになる

コメント欄から、SoundCloud にアップしている曲についてご感想を頂戴した。ありがとうございます。これへのご返答を考える過程で、改めて考えたこと。

 

 

今回のあらすじ:

欲しい音楽が頭の中にまずあって、これを実現する方法(例えば DTM)を選ぶ、というのは、正しくはある。が、逆に方法が音楽の在りようを決める、ということが、殊に DTM の場合大いにあるし、面白い。

 

 

DTM をやる動機やスタンスは大別して

①作曲のため

DTM 自体が好き

③その他

がある。

②は機材愛、作業自体が好き、これが音楽的動機に優先するもの。

 

私の関心は「作曲」にある。にしかない。

私の中に形にしたい音楽がある。形にするためのツールは内なる音楽の要請で決まる。

ほんとうならオーケストラが1つ欲しいのである。お金が無いので次善策として打込みやってる。まあ相性は悪くない。

(KORG01/WFD 1台で完結させるのを「DTM」と呼んで良いかは知らない。基本同じだよね?)

 

専ら生演奏の「シミュレイション」。発想の順番として、クラシックのフレージング(強弱、テンポ変化、などの作り込み)の癖が沁みついてて、それを打込みに置き換える、ということしかやってない。

「演奏不可能」は避けてしまう。「ギターなのに半音間隔で6つ音が重なってる」とか「ヴァイオリンソロで同時に5音鳴ってる」とか「B♭管なのに a が出て来る」とか。

 

なお「動機③その他」として「ダイエット」がある。作業のあいだは寝食を忘れてる。

 

DTM ないし打込みなればこその可能性という視点からすると、もったいない。

機材、作業の側から新しい音楽が発想される。これを見落とさない、排除しない。むしろ逆に、制約を外して好き放題やる、ということを、今後は貪欲に積極的に追究すべきだ。

 

それで思い出した。ピアニズムについて。

リストの曲がどんなに難しくても、一応、頑張れば弾ける作りになってる(いやなってない)。

リストがピアノを熟知してるからである。ピアニズムの極致としての「難しさ」。

いっぽうクセナキスピアノ曲は、まったく別の意味で「難しい」。ヒトの音楽把握力にとって、本当に「演奏不可能」だ。

ピアノ、ピアニストの都合をまったく考慮してないからである。

 

クセナキスみたいにやるべきだし、やれる。ツールを持ってるのだから。