当ブログを「ひねくれてる」と評されたことがあるし、殊更に書いてると言われたこともある。
でも私はただ「素直」であるためだけに書いてる。殊更の逆張りはしない。戦略で書かない。思うことをそのまま正直に書くしか出来ない。
素直の結果がひねくれてるのだから、真性のひねくれである。
悪口を書かなくたって、棲み分ければいいんだろうとは思う。UK について。HOSTSONATEN について。
「多様な価値基準を持てること」は格好良いことではあるが、私は、私の審美眼が鋭くあるために、「何を好きか」と同時にそれ以上に「何を嫌いか、許容できないか」を明確にする。それが表現者には必須と思ってる。
長ずるにつれ、聴く対象を、いっぽうでは拡げ、もういっぽうでは厳しく選別するようになる。
いっぽうでは、ジェネシスやドビュッシーを好む耳にとって「音楽」の範疇に無かったタンジェリン・ドリーム「アルファ・ケンタウリ」やシェーンベルクを、ものともせず聴けるようになる。
もういっぽうでは、「エリーゼのために」と同じくらい名曲だと思っていた「乙女の祈り」を、とても聴けなくなる。
自由になってるのか、不自由になってるのか。
「知恵が付くこと」と「素であること」とは、矛盾するのか、しないのか*1。
「素直」「素」といえば、2000年創刊のとあるジュニア・アイドル雑誌のインタヴュー記事を、ライター達を比較しつつ読み、キャストの「素」を引き出すとはどういうことか?インタヴュアーのスタンスがどうあればそれが可能なのか?を考えたことがあった。
あるライターは、聴き手に徹して、好き勝手に喋らせることでそれが出来ると考えているように見えた。
別のライターは、仕掛け優先で、ライターの個性が出過ぎてるように見えた。
私の結論は、後者が正しい、だった。なんしろ相手はU-15の少女である。「演出しない」ことで何が出て来ると期待できるのか?
まず仕掛けが、相手を挑発する強度を以てあって、それに対して出る反応こそが、初めてその子の「素」である。
*1:2023年01月30日追記
この一文は、唐突だし、意味が取りづらい。
つまり、
「『20年前の私は素の私だった、今は外から借り入れた知恵に随って物事を見てる』わけではあるまい。遡れば『純粋な私、本来の私』がいて、学ぶことによってそこからはぐれた、のではない。そもそも私のモノゴコロは、外からの刺戟で始まったものに違いない」
ということです。