カレーに十六穀ごはんはアリか?
むろん、合うし、おいしい。
でも、カレーは流し込むものである。
いっぽう十六穀ごはんは、「有難くゆっくり味わう」、穀物を噛み砕く快感を出来るだけ引き延ばすものである。
この矛盾の落とし処を探りながら食べる仕儀になる。
一般には、十六穀ごはんの「食感」と言うんだろう。私はこの語を金輪際使わない。
厳密じゃないからだし、厳密じゃないまま猖獗窮めてるのが忌々しいからだ。
「食感」の語を使う人は、感覚が未分化で未熟なのか、感覚を言語化する能力が未熟なのか、どっちなんだろう?
あるいは「感覚すること」と「感覚を言語化すること」とは一如なんだろうか?