ドビュッシー「遊戯」 ※本文より長い追記をしました※

ドビュッシーストラヴィンスキー春の祭典」に戸惑った。「方向を間違えてるんじゃないか?」みたいな評だったと思う。

これは、「感覚の自由の権化」ドビュッシーですら(「ペトルーシカ」までを手放しで絶賛してた彼ですら)戸惑うほど、「春祭」が従来の美学を踏み越えてた、というエピソードではあるんだろうけど、もう一つの理由かも知れない経緯がある。

ドビュッシーの最も「進んだ」オーケストラ作品は「遊戯」だけど、その初演の2週間後、同じ場所、同じ演奏家で「春祭」スキャンダルがあり、その陰に隠れて、「遊戯」は一旦完全に忘れられ、その先進性の正当な評価がずっと先になってしまった。

(最初の商業録音は、戦後、初演から34年後の1947年、サバタ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団によるもの。)

(精緻を極める「遊戯」が、真逆の「曖昧模糊」という評を得てしまったのには、団員の理解が及ばず不十分な演奏だったから、という理由もあるようだ。まあ、この前例のない音楽を初演するのは、「取りつく島の無い」困難だろう。)

その経緯があって、ドビュッシーは「春祭」に厳しくなってしまったのではないか。

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Debussy 'Jeux'

Pierre Boulez / Cleveland Orchestra

 

 

追記2017年12月01日

書き直すか新たに1記事書くかしようとも思いましたが、追記にします。

 

周知のことなので端折りましたが、「遊戯」「春の祭典」の初演はともに、バレエ・リュスの公演です。

1913年、シャンゼリゼ劇場杮落としの目玉として、ピエール・モントゥー指揮で。

「遊戯」が5月15日、「春祭」が5月29日。

 

ブレーズのつべを、1966年録音の New Philharmonia Orchestra にしなかったのを悔んでいました(クリーヴランドのほうは1993年録音)。ブレーズの演奏は毎度、譜面に書いてある音が全部聴こえてくるような、その全ての音の、コンポジションの中での意味付けが明晰であるような「作曲者目線」のもので、ドビュッシーにおいても印象派的もしくは象徴派的な「雰囲気の描出」と全く無縁ですが、その点で NPOとの旧録のほうがより過激です:

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今これを見つけましたが、データが不明です:

www.youtube.com

 

NPO のは、1967年(※註)リリース当時まったく新しい解釈としてびっくりされたと想像しますし、私個人もこの演奏に出会って耳が洗われました。

「遊戯」を知った最初はマルティノン/フランス国立管『ドビュッシー管弦楽曲全集』でした。明晰で、正しく音化されてはいますが、曲の良さがピンと来たのはクリュイタンスででした。

(演奏者のマルティノンが「全集の一環として、個々の曲全てに集中力と共感を注ぐのは不可能で、やっつけにならざるを得ない」のか、あるいは聴き手の私が「全集の一環として、個々の曲全てに集中力と共感を注ぐのは不可能で、やっつけにならざるを得ない」のか。後者です)

パリ音楽院管弦楽団で『ラヴェル管弦楽曲全集』を出してるクリュイタンスですが、ドビュッシーの録音は少ない。でもその中に「遊戯」がある。色彩的で、フレーズの一々をしっくり納得しつつ聴けて、魅了されました。

(いったいに、クリュイタンス/OSCC は響きがだぶついて、好みではないのですが)

そこにブレーズ/NPO との出会いがあって、「全然違う!」とびっくりしたのでした。

「CD聴いてる」より「譜面読まされてる」に近い感覚。

初演者モントゥーはこの曲をスタジオ録音しませんでしたが、ライヴ録音がいくつか残ってるようです。実家にはボストン交響楽団とのLPがありました。

アンセルメ/OSR は、私が聴いたのは、モノラル(1951年録音)とステレオ(1958年録音)の2種類。モノラルの方は、内側から湧くパワーで音楽を推進するような「力感」があって、フレージングにも「筆勢」があるのに対して、ステレオの方は、スタティクで、見事に各フレーズ各パート鳴らし分けた演奏が、まるで「当時のデッカの録音のハイファイさ、分離の良さをデモンストレイトする目論見ありき」に聴こえてしまいます。

 

※註 このドイツ盤は1966年リリースってなってるけど、本当かな?

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