イメージが書法を決めるのではない。書法がイメージを決めるのだ。
自然の印象を音楽に置き換える「描写音楽」に興味がない。
その置換が可能だとも思ってないが、仮に可能だとしても、
自然が表層に見せている現象をなぞることに興味がない。
現象を成り立たせている原理を探り、これを音楽の仕組みのヒントにすることは可能かも知れない。
この場合、アウトプットが、ヒントの元になった自然の表層の現象や印象に「似ている」かどうかは問題ではない。
ヴェーベルンに惹かれる理由はここにある。
作曲がすなわち音楽の仕組みの提示であること。
イメージが先にあり、そのために書法を選ぶ、のではない。イメージに相応しい書法というものがあるとしたら、それは約束事に過ぎない。
ヴェーベルンの音楽は決して「何も表現しない」音楽ではないが、そこでは「イメージ」は仕組みの「結果」だし、「効果」として現れたものだ。
「ヴェーベルンは」は自ずと「ベルクではなく」を含意する。
もちろん、ベルクが表現の人・耽溺の人であることが、同時に彼が書法の人・知性の人であることを些かも損なわないが。
ドビュッシーこそ、作曲すなわち書法の開拓、の人だ。