音楽と救い 音楽は救い

「癒し」という言葉を蔑視するのは言わずもがなだが、その私が、音楽に「救われた」と発言することが少なくないのだった。

私が救われるのは、「表現」の対極にある、純粋に音の戯れであるような音楽に。

ハイドンとか。

ある時救われたくてクラウトロックに目星をつけディスクユニオン神保町店に赴いた。初めて知る Zero Set と、未聴だった Kraftwerk "Radio Activity" を見繕って、概ね目論見通りに救われた。

 

「癒し」の語を蔑むのは、これが音楽ビジネスのタグだからだし、意味を正確に定義せぬまま安直に使う者への苛立ちだし、なにより、音楽を何かの「用途」に供する料簡への不服だ。

 

私はお酒を飲まない。ドラッグは一切やったことがないし今後もやりたいと思わないしやらない。

お酒を召し上がったうえで音楽をお聴きになる方が多いのにびっくりする。正しい鑑賞の妨げでしかないと思ってる。でもお酒の効果があって初めて増幅されて聴こえ始める音があるのかも知れない。下戸に発言権はない。

ドラッグと音楽作品の関係についてはかねがね疑問に思ってることがある。

サイケとは、ドラッグをキメたうえで聴く音楽のことなのか、あるいはドラッグで聴こえるものを音楽で模倣するものなのか。

キメたうえで聴けば、どんな音楽でもサイケに聴こえるわけではなくて、適した音楽があるのか?

ドラッグ体験そのものが目的で音楽はその効果を補助するのか? それとも、ドラッグの世界を、ドラッグ体験の無い者向けに翻訳してみせるのがサイケなのか?

ドラッグ体験の無い私がサイケを聴いても、つまるところ聴くべきことはなにも聴こえていないのか? 非サイケと同じ聴き方で、作曲として評価し面白がるのは、間違いなのか?

私は、ひとまずは、コンポジション至上で、「用途」のためにこれが蔑ろにされるのは容認できない、という立場だが、音楽の存在意義をより深く問い直すのも忘れてはならない。音楽の本来持つパワーをコンポジションが馴化し抜け殻化することの方こそ道を見失ってるし罪悪なのかも知れない。料簡はいつも最大に自由に保っていなければならない。

 

以前 twerk という単語を見た時、てっきり Kraftwerk のことだと思った。weblog → blog の法則だと。

表記だが、「クラフトワーク」「コンラッド・シュニッツラー」は「クラフトヴァーク」「コンラート・シュニッツラー」ではダメなんだろうか?

Quatermass は従来「クォーターマス」と呼ばれてるが、「クエイタマス」じゃダメなのか?

ベルアン関係でいうと、「フランボロー・ヘッド」は「フランバラ・ヘッド」、「ピカピカ・ティート」は「ピカピカ・ティアート」だと思う。