読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

S / N 比

若い頃は精神生活に妥協が無かった。

文章でも、「書く」ことについて十全かつ厳密だっただけでなく、「書かない」ことについて徹底してた。

接続詞を使わないことにこだわった。論旨を明確に示し得ていれば、接続詞を置かなくてもその前後の関係が、順接なのか逆接なのか、因果なのか並列なのか、読めば判る、と。

それは相手の読解力を信用することでもあって、接続詞の補助が必要になるのは、論旨の明確さに問題がある、誤魔化しや辻褄合わせが行われている場合であり、同時に、読者を、補助や手加減を必要とする、読解力不全の者と見做す「無礼」だ、と、頑なで、しばしば歪な、こだわり方をしてた。

共有してると見込まれる前提事項を省略するのは当然だが、若い頃は、その刈込みの程度が最大で、何も伝わってなかったことがあとで判明する、のが慣例だった。テクニカル・タームを注釈なしに使う、とか。

 

読者といってもプライヴェートの友人です。引越しがあるたびに、前の土地の友人との文通が始まる。「あったこと」ではなく「考えたこと」を、随筆か、アフォリズムの連続にして、送りつける。文章力を「たまには普通に近況報告をしても、バチは当たらないと思います」と褒められたが、それは、友人への私信の場合でも、必ず下書きをし、推敲し、完璧に文章を組み立ててから「清書」してたからなのだった。

文章の S / N 比が、今は、若い頃よりも上がってる自覚があるが、注釈不足ゆえの意味の通りにくさでご迷惑をお掛けしてることもあるらしいのを、時々知る。すみません。

 

矛盾について。

言葉を、「辻褄合わせ」を行うために発する人っている。私自身陥ってると思う。言葉の運びにこだわることよって、繋がり流れてるように見せかけ、書いてる本人も繋がり流れてるように思い込む。辻褄合わせの誘惑には常に晒されている。

書いてる最中に矛盾なり論の進め方の無理なりを自ら発見した時は、文章全体を破棄するか、または矛盾を矛盾のまま正直に提出するか、しかない。

矛盾を矛盾のまま放り出してツッコミ待ち、というのは当ブログの通常です。

矛盾ゆえに、次の議論の契機になり得る、ということがあるか判りませんが。