馴染む、理解する

この記事 

の中程で、「それまで理解できなかったものが『理解できる状態になる』ことの内実に、『馴染む』こと以外の要素ってあるのだろうか?」と書いた。

ドビュッシージェネシスに音楽美の範疇を見出していた小6の耳が、シェーンベルクの無調になってからのピアノ曲タンジェリン・ドリーム「アルファ・ケンタウリ」に出会って、まず戸惑う。どう聴けばいいのか判らない。

何度か聴くうちいつの間にか、なんとなく判るような気がし出し、あまっさえそこに「美」を感じ始める。

 

たしかに、知識として、作曲の仕組みを知ったり、そっちへ進まざるを得なかった作曲者の創作上の必然を知ったり、歴史的位置付けを知ったり、ということはできる。

でもそれだけでは「だから何?」であって、そのことと、そこに価値があると感じることとは、全く別のことだ。

価値の裏付けのためには、理屈はいろいろ挙げられるけど、結局は鑑賞を重ねるうちに「馴染む」ことを以て「理解する」というのではないか?

 

書くについても、それまで書けなかった無調の曲を書けるようになるとは、躊躇してたのを臆面なくやりだすということで、それを可能にするのは「新たなセオリーを手に入れること」であるよりも「耳馴染みが進むこと」だ。

 

 

「ピンと来る」「腑に落ちる」「切実に大切なものと感じる」状態にさせるのは、理詰めの説得ではない。

 

 

対象自身が持つ美にヒトの側が近づき気付くことが理解なのか? 対象の美は絶対で他で替えが効かないのか?

あるいはヒトが心理のメカニズムとして「美を感じる対象を欲する枠」をもともと持ってて、欲求を満たしさえすれば、その「対象」の項にアサインされる音楽は、割と何でも OK なのか?

あるいはあるいはその両者は、同じことの言い換えなのか??