お向いのお宅から毎朝決まってアルバム『ヘイ・ジュード』が聴こえてきた。
目覚まし代わりなんだろう。雨戸越しに漏れてくる。室内では大音量のはず。
私は「レイン」が好きだから、そこに差し掛かるのを期待したが、それどころか「ジョンとヨーコのバラード」まで完走することもあったから、目覚ましとして役立ってないんじゃ?と心配だった。
目覚ましに使えるのは居たたまれない音楽、わたし的には、歌モノのうち、音楽を感情表現の手段と勘違いしてるもの。
と、吉田達也。
Hostsonaten や Mostly Autumn やアストゥーリアスの「不毛」を蔑むのは当然として、なぜ私が吉田や Univers Zero を嫌うのかは説明が難しい。
アーティスト自体に対してよりも周囲の持ち上げ方に対しての納得の行かなさであるとか、出会い方の問題であるとか、かも知れない。
↓かっこいいよなあユニヴェルゼロ。このバンドと幸福に出会えなかった。タイミングの問題。予備知識なく聴いて、自ら魅力を発見した実感を持ててたら、好きになったんだろうに。世間の過剰な高評価に引いてしまって、素直になれなかった。かっこいいんだけどなあ。@kakereco
— しんかい6501 (@coccyx_T) 2013年9月2日
正鵠を射てないけど、このツイみたいなことかなあ。自力で発見し、実質に即した評価を自分の中で育めれば愛せたものを、「チェンバー・ロックの始祖」とレッテルを示されたら、それはヘンリー・カウだろ、時期的にも先だし遥かに極めてるだろ、そもそもチェンバー・ロックって何だよ、何も意味しないカテゴリーの立て方してんじゃないよ、となる、ということなのかなあ…
ことさらdisらず、ただ棲み分ければいいんだけど。
こうやって「やっちゃいけない作曲」を典型的に示してくれれば、これを許容できちゃうリスナーとの棲み分けの基準に使えて便利。ひたすら不毛で退屈 https://t.co/Sta1Nh0j6A
— しんかい6501 (@coccyx_T) 2016年1月29日
…disってるし…
今日の空耳。
0'46"~「盛るだけの呼び屋」
Mor dak nu o iau pe ea
2'55"~「高園嬉しそうだ 代わりに貰う」
Dar taso' nu vrea s-o dea
Ca are inima rea
(ルーマニア語?)