~が売ってる ※ちょっと追記※

「~が売ってる」という言い方はふつうに行われる。

文法的筋を通せば「(誰々が)~を売ってる」または「~が売られてる」なんだろう。

 

「売ってる」をここでは「自動詞」と見る。

他動詞「売る」の連用形「売り」の促音便「売っ」+助詞「て」+補助動詞「る」、英文法風にいって「売る」の現在進行形、という分析ではある。だが現在進行形「(~が)売ってる」が単独に存在し、その元の現在形=自動詞「(~が)売る」が存在しない以上、「売ってる」を自動詞として独立させて支障がない。

 

(ちなみに助詞「て」は助動詞「た」の連用形と見ちゃいけないんだろうか?)

 

商品が売られた状態にあることを、誰がそれを売ってるのかを問題にせずに話題にしたい、かつ受動態「売られてる」の回りくどさ冗長さを避けたい、ことから「売ってる」が選ばれるんだろう。

 

ほかに似た例があるか、例えば「~が置いてる」「~が捨ててる」という言い方が行われるか、知らない。

 

漢語は勿体ぶるベクトルを持つから、くだけるベクトルとは相乗りしなそう。

「~が陳列してる」「~が投棄してる」と言いたい動機は生じないのではないか。

 

 

私自身は、言葉を、コミュニケイションのツールであるより、自律的な体系だと思ってる。

用を足すための道具ではなく、私の存在が依拠する「世界」であって、そうである以上論理が一貫してなければならない。

ぎゃくに、そこを押さえておけば、「A」と発話することが、全世界を語ることになる。A以外にあり得るあらゆるケースを想定したうえでの、世界の中に位置づけられたAになる。

体系に根拠づけられてるからこそ、Aが非Aを蔑ろにするのでなく、省略が象徴を生み得るし、だから融通無碍であり得る。

 

 

追記 2016年12月19日

補助動詞「る」は「いる」の縮約、との決めつけで書いたのだったが、「ある」の縮約としての「る」というのもあるのだろうか?

「~が置いてる」「~が捨ててる」の例を出したのは、受動態「~が置かれてる」「~が捨てられてる」を本来の形として想定してのことだが、「~が置いてある」「~が捨ててある」と言い得るしむしろこっちのがふつうに行われてる。

「~が売ってある」という言い方を私は聞いたことがないが、これを想定して、これの縮約が「~が売ってる」だ、と考えれば、全てがすんなり納得されるのかも知れない。

「売ってある」のみに縮約が起き「売ってる」が生じたのは、消費は大きな関心事で頻繁に言及されるから、なんだろう。

でも依然として違和感を覚えるのは、「売ってある」「置いてある」「捨ててある」という一息で発音される長さの1単語、その中の2つの動詞的要素がそれぞれ別の主語(構文上のではなく意味上の)を持つ、ということだ。

「売り」「置き」「捨て」るのは「私が」であり、「ある」のは「CDが」だ。

これは日本語の「人称」と「時制」の特徴、「基準点そのものが定まらない」こと(英語の person と tense は「私」「今」を基準に語られる)、の一つの表れなのだろうか?