ベルクのヴァイオリン協奏曲の出だしについて改めて持った感想について書くための道程④

私は楽器で作曲することがない。

いや、キーボードに向かってやるわけだけど、キーボードから発想するわけではない。

曲は私の中から来る。それを形にするのに、キーボードの並びが都合がいいだけだ。

 

なのだが、ヴァイオリンの場合、その調弦法から発想される音組織の眺望というのがあって、キーボードに向かって12の音を平等に俯瞰しながら作るのとは違う地平に立ってる、ということがありそうな気がする。

g-d-a-e、完全5度間隔で調弦されてる。

ヴァイオリンを使って作曲することによって、「5度圏」的、リディア旋法的な発想で、カデンツの陋習に捉われずに音組織を考え直せるのではないか?

 

で、ベルクのヴァイオリン協奏曲です。

なぜあの出だしなのか。

じつは初めてあの出だしを聴いた時、違和感を持った。

不純だと思った。

内発的に必然的に選ばれた音程じゃないと思った。

 

さいきんふと、それに加えて、別の感想を持った。

ドデカフォニーは、和声音楽(T、D、Sのカデンツから始まってヴァーグナーの半音階的転調のどん詰まりに至るまでの)の遺産の重みを、引き受けつつ、改革するものだ。「人為による操作」の中に閉じている。

いっぽうリディア旋法は、サブドミナントを持たない、随って「ドローン」音楽と親和的だ。「音の物理」に開かれている。

相容れない*1

ベルクの意図はどこにあったんだろう?

もし、12音音楽が最も広大で、5度圏的リディア的ドローン的音楽も、その中に包摂される、と示したつもりなのなら、ちょっと待て、とは言いたい。

 

(おわり)

 

追記 補足でもう1回続きます。

*1:当シリーズ記事の中で「開かれている」「閉じている」という言い方が場当たり的なのは気になってる。

前々回②では、ドローンは自己完結し自足して(=「閉じて」)いて、これがサブドミナントによって「開かれ」て転がりだす、と言った。

今回はドローンは音の物理に「開かれ」ていて、カデンツは人為の中に「閉じて」いる、と言ってる。

まったく逆になってるわけですが、カデンツの立場から見て「開かれ」ているものが人為の中に「閉じて」いる、というのは、矛盾ではないです。