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ベルクのヴァイオリン協奏曲の出だしについて改めて持った感想について書くための道程③

音楽

ドビュッシーのホールトーンがシェーンベルクのドデカフォニーを準備した、という言い種がある。

 

オクターヴを等分する。

それを、縦に和声にも、横に旋法にも、使う。

 

この言い種に対して私が抱く違和感について書くことが、私のドビュッシー観を書くことになる筈。

客観的で正確なドビュッシー論は目論まない。私にそれは無理だ。

私の目下の関心を書くのに、ドビュッシーをダシに使う、というべき。

 

もし時代の制約、技術の制約がなかったら、もしかしたらドビュッシー倍音系列で書いたんじゃないか?と思うことがある。

初期から9の和音を多用する。これは倍音系列に(近似値で)沿う。

彼の最も知られたトレードマークであるホールトーンですら、無理を承知でいえば、倍音系列由来なのでは?

倍音系列では、(近似値で)シ♭、ド、レ、ミ、ファ♯、辺りに陶然となるが、これにソ♯を加えればホールトーンが出来る。

平均律で作曲しながらの、そこから倍音系列への精一杯の憧れの表明、みたいに聴こえてしまう。

ホールトーンは調性の中心をなくすのに都合がいいのに、ドビュッシーは決して無調へは向かわなかった。

プレリュード第1巻第2曲「ヴェール」ではホールトーンに拠りつつ終始ベースがシ♭を強調する。ホールトーンでやってる限り、ベースが即トニックに聴こえるし、ベースでトニックを示す以外に、調性を示す方法がない。で、ドビュッシーはそれをやってる。

つまりここには「カデンツ」が無い。「ドローン」の音楽だ。

ドビュッシーはまず何よりも「耳を澄ます」人だった。

音の出来事をありのままに聴きとる耳でもって、音楽の音組織を、音の物理にまで遡って、根本から組み直す。

「音楽」を包摂しつつ広大で、無限に多様な「音」の世界。

 

ドビュッシーが自由な耳で拓いた広大な世界を、シェーンベルクが、もう一度、ドデカフォニーの「人為による操作」の中に閉じ込めてしまった。

ドビュッシーがホールトーンでオクターヴを6等分しつつも(まるで倍音系列みたいに)トニック=調性の存在を指向したのに対し、シェーンベルクは、12の音を平等に扱い調性の中心を作らないことのために、オクターヴを12等分する。つまり平均律が大前提になる。

ドビュッシーシェーンベルク平均律で書いたのに、ドビュッシーにはそこから逃れようとする自由の人像を押し付け、シェーンベルクには教条主義者の汚名を着せるのは、まったくの私の偏見です。

あるいはシェーンベルクは、オペレーションのためのポイントを12個置きさえすれば、響きそのものには興味がなかったのかも?

シェーンベルクは改革の人だけど、伝統に連なりつつの改革で、ドビュッシーみたいなド外れた天然ではない。

 

 (つづく)