ベルクのヴァイオリン協奏曲の出だしについて改めて持った感想について書くための道程②

幾つかある教会旋法の中から、ドを主音とする音階=イオニア旋法が「長音階」として残ったには理由がある。

要するに「和声音楽」の時代に入って、T、D、Sのカデンツによって曲を構成し展開させるのに、最も都合がよかったからだ。

サブドミナント=ファが存在すること。

導音であるシが存在すること。

 

私はここで史実に沿って旋法の変遷を述べるのではない。私の浅学にそれは不可能だ。

 

長音階にどんな音階を据えるか、考え方はいろいろあるが、そもそも音階というものが「周波数の単純な整数比で表せる=協和する音程を並べたもの」だとすれば、最も協和なのは倍音列だから、これに(近似値で)沿う、

 

ド-レ-ミ-ファ♯-ソ-ラ-シ♭

 

という音階があってしかるべきだが、教会旋法にこれは無い。

インド音楽の「タート」にも無い。

 

インド音楽において「音階」に当たるものは「ラーガ」?といったん思ったけど、ラーガは、

「基本的に旋律を構築するための規則で、音列と同時に、メロディーの上行・下降の動きを定めるもの」「音列上の特定の音をより強調する、より控え目にする、装飾音をつける、ビブラート等の規則があり」「各々のラーガには演奏するのにふさわしい時間帯が決められている」などというふうに、「非常にきめの細かい旋法であり、音階と混同してはならない。音階はあくまでもラーガの1要素に過ぎない」(ウィキペディア「ラーガ」の項による)

だそうで、音階に当たるのは「タート」のようだ。

 

とにかく、長音階の第7音に、シ♭ではなくシ♮を採用することには、相応の合理性がある。

前述のように、和声において「導音」の機能を持つこと。

ドミナントⅤの第3音であること(トニックを基準とする協和ということなら倍音列だが、各度数から見ての協和、ことにドミナントという音程を基準としての協和は、和声音楽においては重要)。

 

 

「5度圏」と「倍音列」に基づいて自足する桃源郷としての音楽の世界。

しかしそれは「ドローン」の音楽であって、「カデンツ」による「展開」は起きようが無い。

不用意に当り前のように「トニック」「ドミナント」「サブドミナント」と並列して言うけれど、全く以て「サブドミナント」というものは、異質で、唐突なものだ。

ミトコンドリアみたいだ。もともと別の生き物のくせにしれっと細胞の一組織に収まってる。

母性に支配される世界、自己完結し停滞するドローンに、サブドミナントの父性の楔が打ち込まれて、初めて音楽は開かれて転がり始める。

ことさらに「父性」の語を使うのは、カデンツは「意識」「人為」であって、音の「自然」「物理法則」から乖離して音を「操作」するものだから。

 

 

念の為、私のスタンスを断っておく。和声の開拓に最も貢献したのは無論ロマン派なのだが、ロマン派において和声は往々にして文学的な「物語」の進行とリンクする。それを私は好まない。

 

 (つづく)