懺悔、でもまだその途中


 ↑で書き漏らしたこと。

 

私は私の常識をズラしたいし覆したい。その志向が強い。

相対化の視点を得たいし、なるべく極端なそれが欲しい。

 

音楽の在り方を常に考え直すのが音楽家の仕事だと普通に思ってるから、プログレ聴き始めたんだろうし、プログレを既存のスタイル=懐メロとして聴く人たちの集まりの中で居心地が悪かった。

 

民族音楽をなぜ聴き始めたか。

音楽自体の構造の捉え方を、なるべく根本から、考え直すため。

音楽の、社会の中での機能や、個人の精神生活の中での機能を、考え直すため。

 

私の常識をなるべく根底から覆すもの、となると、グローバル化に押し寄せられる以前の「純粋な」民族音楽を欲しがることになる。

そもそも私はヒトは時代が下れば下るほど堕落する、いのちそのものを生きることから乖離する、という世界観歴史観を持ってた。

西洋文明が、植民地主義が、グローバル経済が、世界を均して、各地の、「いのち」の知恵たる文化を蹂躙するのを、呪う、の図。

今もこの志向は変えられないけど、「純粋幻想」が危険なのは、現に今を生きる民族の文化について、余所者の私がジャッジすること。

フチのカムイユカルは「純粋」を受け継いでて「正しい」もので、ポップのビートに乗せたものは大和のエキゾティシズムを満足させることを狙った「観光地化された」もの、と、とんでもなく間違ってるんだけど、最近まで、ほぼこのように捉えてた。

済みません。お恥かしいです。

 

だいいち、「常識から自由になりたい」はかっこよさげだが、これと「異国情緒」「物珍しさ」を求めるのと、どこがどう違うのか?

自分を批判の対象に含めずに済むように、恣意的に線引きしてないか?

 

乱暴な物言いだし議論がゴタついてるし矛盾もあるかも知れないけど、推敲することがすなわち辻褄を合わせることや無難に納めることに傾いてきたので、このまま放り出す。