まだ考え中

乱暴で無責任なことを言ってしまうかも知れません。

 

 

特殊・個別に惹かれる。

一般化・グローバル化で取りこぼされるもの。

 

大和の私が沖縄の音楽、アイヌの音楽をくすねる。

ポップないしクラシックの私が民族音楽をくすねる。

 

 

余所者による簒奪。

ジョリヴェの「赤道コンチェルト」が「植民地主義音楽」と批判される。

 

西洋クラシック音楽が、民族音楽を、クラシックの作曲システムに取り込める要素に還元して、取り込む。

平均律に取り込めない微妙な音程や節回し、メトロノームのビートに取り込めないタイム感の揺らぎ、が排除される。

民族音楽のキモを取りこぼす。

 

もともと特定のコミュニティと結びつき、どういう機会に誰によって演奏されるか決まっていて、そこから切り離せない、「持ち運びできない」音楽を、西洋のオーケストラに乗せて、世界のどの土地どの条件で演奏されても同じ価値をもって鳴る「持ち運びできる」音楽に仕立てる。

象徴的な意味を濃く帯びた「場」から切り離し、均質でのっぺりした空間に連れ出して、音楽を「無意味」にする。

 

異質なもの同士が出会って新たなものが生まれるということはあるだろう。

でも、大雑把無神経な一般化に押し寄せられて微妙な特殊・個別が踏みつぶされるケースには、私は心が痛む。

民族音楽側から見れば簒奪だし、クラシック側から見れば不毛だ。

 

'Within You Without You' は苦手で 'Blue Jay Way' は大好きなのは何故なのか?

前者ではインド音楽そのものになりきろうとしてて、もちろん無理で、後者ではそこを割り切ってロックとして処理してるから潔い、のかな?

これも(憧れという名の)簒奪かもしれないけど、一筋縄でいかないな。

 

 

現地の音楽家が現地の音楽をどう演奏しようが、もちろんすべて無条件でOKで、余所者の私がケチを付けることは許されない、のだけれど。

 

子どもの頃、叔母の書斎でCDやアナログ盤を聴いて過ごした。

直接音楽についてやりとりをしたことは、実はあまり多くないんだけど、その中で、なにげに決定的な影響を私に及ぼした一件がある。

彼女的には、半ば独り言だったんだろうけど。

 

「沖縄の人はりんけんバンドをどう思うのかしらね」

 

と、確かにこの通りの言い回しで、ぼそりと、批判したのだった。

たぶん、

「音階」だけ沖縄を採用し、音程やタイム感のゆらぎを捨象してポップのビートに回収し、コミュニティの「持ち運べない」音楽を「持ち運べる」ポップに一般化してる。

そしてそれはやまとんちゅ仕様の「リゾート」音楽で、沖縄テイストとしてやまとんちゅは喜ぶかもしれないけど、うちなんちゅからすれば、魂を売り渡したと見えはしないか?

というか、やまとんちゅだってやまとんちゅ仕様宛がわれて、嬉しいか?

観光資源はディープな習俗や自然なのであってリゾート化された観光施設じゃない、みたいな。

…という意味合いだったと解釈するけど、叔母の見方が当たってるかどうか、私には判断出来ない。

判断出来ないまま、この感覚、価値観は、確実に受け継いでる。

(書斎には、小泉文夫のシリーズの「八重山の民謡」はあったし、大工哲弘はあったが、りんけんバンドは無かった。

小泉の「ブルガリアの音楽」はあったが、クーテフは無かった。)

 

OKI を聴いた時、それに似た解釈を当て嵌めてしまったのです。

私が勝手に「特殊・個別」「本来のアイヌの歌」と思っていた繊細なヴィブラートによる唱法が、ダブによって乱暴に「一般化」され犠牲になってる、という印象を持ってしまった。

これは私のまったくの不見識、まったくの誤解だと思います。

まず、大和の私の立場で「これが本来のアイヌの歌」と認定することが間違いだし不可能なこと。

どこの文化でもそうだけどとくにアイヌの場合歴史的経緯から、伝統文化を「受け継ぐ」ことはすなわち「再創造する」ことと一体であること。

簡単に旧来の文化を継承すればいい、といかないまでに、継承が可能な環境を損なったのは、私の側、大和であること。

いまを生きるアイヌの奏でる音楽がどうあるべきかについて最も意識的である結果が、OKIの音楽なのでしょう。

 

 

余所の伝統文化の継承に絶対にいかなる場合も容喙してはならない、のかどうか。

タウトがいなかったら日本人は桂離宮伊勢神宮の美に気付かなかった。

宗教儀礼サンヤンが滅びかかっていた時、シュピースが見兼ねてこれを芸能ケチャとして残す提案をした。

(このへん覚束ないです。思いっきり間違ったこと言ってるかも)

余所者だから気付く価値とか、現地人余所者共通の人類にとっての価値という見方とか。

ケチャとして形だけ残すことは、サンヤンにとどめを刺すことだけど、一般に私たちが音楽として有難がって聴いてるものは全部そういう「抜け殻」なんだし。

 

 

大昔ラジオで1回きり聴いた話で、記憶がこの上なく曖昧なんだけど、漱石についての話。

ロンドンで、自分がイギリス文学を、どうしてもイギリス人と同じようには理解できないことを悩んで、「神経衰弱」に陥るんだけど、ある時ハタと気付いた。

日本人である自分が日本人のしかたで読むことによって、「イギリス文学」が「世界文学」になるのだ、と。

私はぶっちゃけ、アイヌの伝統文化が、そういう、世界に向けて発信されるべき文化だ、という幻想、アイヌの世界観と知恵が世界を救うという幻想から、未だ抜け切れていない。

 

↓追記。