ノイジー・ベイビーの件にかこつけて、私論

(2015-06-15 、記)

 

 

まず、生半可な首の突っ込み方だったことを反省。

私はカルメン・マキさんについてもキノコホテルについても知らな過ぎる。

 

一昨日のツイートの私のコメ部分は以下。

《残念乍らカルメン・マキさん@carmen__makiにがっかり。このまとめを読む限り「自己正当化する言い訳」に終始してるのは彼女の方。リスペクトするからカヴァーするんで「『伝統』や『歴史』が受け継がれてい」くのを、つまらない意地のために妨げているのは彼女自身と気付くべき(繰り返しますがこのまとめを読んだ限りでの意見です)》

 

マキさんご自身が「元はといえば『手続き上の問題』」とおっしゃるならその方向で話を収斂させればいい。

キノコホテルの側に手続き上の問題がなかったこと、それを指摘されて後のマキさんの対応が、私には「引っ込みつかなくてああいえばこういうモード」に入ったと見えること、についてはもういい、私自身がげんなりしてる。

 

そこではなくて、色んな方とのやりとりの中で考えた諸々について、この件に即してではなく、書きたい。

 

さいわい私のお知り合いはみなさん、議論が成立する方たちで、率直な意見を申し上げても、そのことで関係がぎくしゃくしたりということがない。信頼できて、ありがたい。

 

 

 

私の尊敬する先輩がいみじくも「尖って生きることと、非常識を混同してはいけない」とおっしゃっていて、本当に重要なご指摘だと思う。

「常識」というタームを持ち出すと、その定義とか、そもそも「常識」って、殊にロックにとって「敵」なの「味方」なの?みたいにややこしくなる。

自分の正当性のため、議論の辻褄のために「常識」「非常識」の線引きをいくらでも恣意的にやれてしまう。

厳密さが必要だ。

 

マリアンヌさんが常識の方かどうか、マキさんはどうか、という話から離れて一般論になってしまうけど、私は《傲慢、生意気は若さの義務》だと思ってるし、さきの先輩の重要なご指摘にもかかわらず、「常識」を、打ち破るべき「敵」と感じることが多い。それを「ロック的」とすら思う。

 

今回の件でマリアンヌさんの言動について私の周囲で交わされるやりとりは「ビジネスとしてのロック」の現場における「常識」についてのもので、それはもちろん重要だけれども、「思想としてのロック」と相容れないものがある。

 

 

一番重要に思ってること。

どんな表現者も表現機会は保障されねばならない。

これを侵すような動きに対しては私は過敏になる。

 

表現者は、蔑み嫌い敵対する表現者の活動の場の保証に、命を賭けねばならない。

 

傲慢であっても、であれば若さの義務としてなおさら、制限を加えずやらせるのが基本だし最優先だ。

 

巷にはロクでもない音楽が溢れてて一掃したい衝動に私自身つねに駆られてる。

でもそれを排除抑圧することは音楽の世界全体にとっての不幸、貧しさへの道だ。

 

 

マキさんのこだわりどころや、私がやりとりさせて頂いた方々の持ち出す「常識」は、ローカル・ルールに見える。

若い世代の「ロック」活動に制約を加えるように機能してまで拘るに値する理があるとは、思わない。