(2015-05-08 記)
Ⅰ.
マ・メール・ロアは、オーケストラ版で、かつ「組曲」でなければならない。
なにも、「全曲版」の、あとから書き足された「前奏曲」「紡車の踊り」「間奏曲」が劣るというのではない。
全く逆。
むしろそれらに、ラヴェルの作曲とオーケストレイションの技が総動員されている。
私は、あの、つつましやかな佇まいの小品が5つ並んでいるさまが好きなのだ。
5編のひそやかなエピソードに耳を澄ますためには、前提として、静寂の水準線を引かねばならない。
書き足された、殊に「紡車の踊り」などは、立派で、喧噪の域にまで盛り上がって、5曲が正しく聴かれるための環境を少なからず乱している、と私は感じる。
要するに本体である筈の5曲が霞んでしまっている。
曲順の問題もある。
「美女と野獣の対話」の最後ちかく、野獣が王子さまに変身するところ(大爆笑*1)、もう少し音楽的に言うとそれまでファゴットで奏されていた野獣のモティーフが、ハープの上行グリッサンドを受けて、トライアングルの一打ちをきっかけに、ソロヴァイオリンのフラジオレットで奏される、超絶的に気高く、遥かに透明で、このうえなく静かな箇所が、マ・メール・ロア全体をとおしてのクライマックスだ。
ここを待ち望みながら聴き進む。ここが近付くと思わず姿勢を正す。ここに差し掛かると身の毛がよだち、陶然と落涙する。
組曲ではこれが第4曲、つまりこの箇所が実質のラストシーン。
「妖精の園」について言っておくと、ぶっちゃけ私はこの曲が好きじゃない。
先立つ4曲のインスピレイションの絶妙に較べて、単なる和音の連鎖、大雑把なやっつけに聴こえる。
「美女と野獣の対話」のクライマックスの余韻として置かれて、その役目は存分に果たしている。
そういう役回りと考えれば、「妖精の園」というタイトルも謎ではなくなる。
このタイトルは童謡集「マ・メール・ロア」の中に出典を指摘できない。
上記のような役回りだとすると、むしろそういう大づかみなタイトルの方が、特定のエピソードよりも望ましい。
で、「全曲版」では「美女と野獣の対話」が(5曲中の)第2曲(バレエでいうと第3場)に置かれていて、違和感がある。
Ⅱ.
理想的名演がなかなか無い。
私個人の結論は出ている。ジュリーニ/ロサンジェルス・フィルハーモニックだ。
ただ他人様にお薦めするには躊躇がある。
これほど、さきに言った「静寂の水準線」を引きまくってる演奏は他に無い。
ジュリーニはこれとフィルハーモニア管弦楽団の2種類を聴いたが、どちらも、聴き手の「積極的な耳」を要求してくる。とくにロサンジェルス・フィルの方の静寂は、過激。
これを措くと、クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団1964年来日ライヴがある。
ただ、この上なく素晴らしいのだが、例の「野獣が王子さま」のソロヴァイオリンのフラジオレットが、ひっくり返って、鳴ってない!
ポカが、たった一か所、しかしいちばん大事な箇所で!
さきに言ったとおり「全曲版」の後から書き足された部分はそれ自体としては実に見事で、指揮者としては意欲を掻き立てられるのだろう。
「全曲版」の名盤はたくさんある。
なかにはアンセルメのような、「組曲」と銘打ちながら「前奏曲と紡車の踊り」付き、というアンバランスなのもある。
お気持ちはお察しします、マエストロ。
Ⅲ.
じつに、私はこの「組曲『マ・メール・ロア』オーケストラ版」でラヴェルに「出会った」のだった。
最近のことは知らないが、私の子供時代、中学生が最初に接するラヴェルの曲はボレロだった。
私はこれが好きじゃなかった。
ラヴェル=ボレロの先入観を壊してくれたのが、ラジオでたまたま聴いたこの「組曲」だった。
以来、いまも私の一番大事な音楽の一つ。
*1:私はこの曲が、童謡のエピソードを上手く音楽に置き換えているから好き、なのではない。
私は描写音楽は好きじゃない。