昔の私は

(2015-07-06 記)

 

 

「音程関係」が表現の道具たり得ることを広義の「調性感覚」と言えるなら、それは引き続き重要だった、というかむしろ、「無調」の音楽にあっては、よほど、その感覚を瞬間瞬間に対して鋭敏に働かせることが要求された、とは思います。

無調というのはその感覚の否定ではなく、調性の「中心を作らない」こと、曲構成の原理として和声の機能=カデンツを据えないこと、だと思います。調性が散在してるというか。

 

調性音楽と無調音楽を同時に併せ持つ現代人なら、無調音楽の広大な世界をまず考えて、調性音楽はその中に含まれる、ある特殊な秩序、とも考えられますが、調性音楽から無調音楽へ移り変わる只中の当時の耳に即していうなら、まず調性音楽を前提としないと無調が意味を持たない、戦争や革命で既存の秩序が崩壊する中にいて、従来の和声に拠って書くのは、嘘っぽいことだったと思います。

 

 

2014年3月15、16日のツイート(ちょっと編集)。

昔の私、何か難しいこと言ってる。