(2015-06-08 、記)
(お題に一言ボケて byアメーバ大喜利)
形式として「ボケ」じゃなくて「ポエム」だから場違いでいけない、というのではない。
むしろ「こうあらねばならない」という制約を壊していくことが即ち「ボケ」の本質のひとつだ。
私が容認できないのは言葉を粗末にする態度だ。
表層的にキレイをくすねる画像(ラッセンの絵とか)を《お題》として投稿することを恥かしいと思えない審美眼。
そこにお題主自ら、《ボケ》として、表層的に快適に響く言葉を羅列した、やりきれなく空疎な「ポエム」を付して投稿する。
表層の「きもちよさ」を「きもちわるい」と思えないこと、快適を陰で支える、不快を引き受ける者たちへの想像力の欠如。
そういう、世界を丸ごと理解しようとか真実を抉ろうとかの意思無しにいったい、何のために言葉があるのか?
言葉を粗末にする者に対しては、言っても通じない、放っておけばいい、と思えなくて、もっと積極的に「腹が立つ」。
だから私は彼女のお題、ラッセンのイルカの絵に「おいしそう」とボケた。
上に言った言葉の羅列が、世間一般でいう「ポエム」という語の解釈なのかも知れない。
それはこの語の本来の意味から、およそ最も遠いところにある。
「詩」であること、「ポエティック」は、私の言語体験、芸術体験にとって最も重要なのだが。
大喜利という場はまさに本来の意味でのポエティックの場の筈なんだが。
なにもこのお題主は本気でラッセンその他を「芸術」と思ってるわけではないだろう。
彼女の主眼は座布団獲得とかランク上げとかにあって、「ポエム」はそのための手法なんだろう。
(でないとしたらよほどお若い方か、よほど言語生活の貧しい=読書量の足りない方だ。)
というわけで私も、私なりの「ポエム」を投稿した。