(2016-04-07 記)
先月半ばから折に触れ思い出し、フロアで掛けたいと思ってた曲があって、でも咄嗟にその曲を含むカンタータ?オラトリオ?のタイトルを思い出せず、フロアにいればそこでの音楽に集中せねばならずで、その都度忘れてた。
「復活祭オラトリオ」
突然思い出したのが3月30日!もう3日早く思い出せてたら…
まあTPO関係なく年中聴きたい曲だし、「復活節」なら復活祭から50日間ある。
J.S.Bach "Oster-Oratorium (Easter Oratorio)" BWV249 の第7曲 'Sanfte soll mein Todeskummer'。
最初このアリアをラジオで聴いた時(ミュンヒンガーだった)、トニック中の「ファ」が、たんに頻出するというだけでなく、経過という出方・位置ではなく出るのにびっくりして、浮遊感に即魅了された。
ソファミファ、ソドシド、とかペログ音階かよ。
ここに貼ったのは、私の贔屓、アンドルー・パロット/タヴァナー・コンソート&プレイヤーズ、テナーはチャールズ・ダニエルズ。
とても速い。
イギリスの演奏家には、と一般化して語ってはいけないのだが、ある共通のマナーを感じる。
譜面を誠実に音に置き換え、過度の身振りによる「表現」を斥ける、節度。
というかまずその前に、「響き」として、磨かれて、夾雑物が無い。
何を鳴らすか、どう鳴らすか、ということと同時に、何を鳴らさないか、に配慮する、あるいはテンペラメントとしてそれをあたりまえに出来てしまう、そういう演奏が、私には「説得力」と聴こえる。
いうまでもなく、表現を大袈裟にすれば説得力が増すのではない。
説得力は作曲にあり、それを引き出すのが演奏で、そのために必要なのは強引な力ではない。
曲をそのまま示す、ということは、聴き手の積極性と理解力を信頼してくれる、ということでもあって、そういう演奏に出会うと嬉しくなる。
大きな、強迫的な声には、耳を塞ぐだけだ。
さいきんフロアで聴いた、LSO がカヴァーしたローリング・ストーンズ・ナンバーにもそういう「説得力」を感じた。
私の LSO への思い入れの発端はモントゥー指揮のドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」で、生身の人間が、これだけの大人数、せーので音出して、こんな磨かれきった響きを出せるなんて、奇跡だ、と思った。
しかもそこに詩情が漂い、色の光のつぶつぶを纏っていた。
(ラヴェル「ダフニスとクロエ」(全曲)では、夾雑物の無さが逆に作用して、素っ気ない「やっつけ仕事」に聴こえて困った。そこの差が何なのか、言い当てられないが、大事なポイントかも知れない。)
絵本で、アバドと LSO のメンバーがワンカット(話の筋と無関係に)登場するのがあったと記憶する。
キット・ウィリアムズだと思うのだが、ウェブ上に画像を見つけることが出来ない(※脚注)。
リャードフのオーケストラ曲は私のロマン派欲をすっかり満たす。
数年前、これをまとめて収録した便利なCDがあったので買ってみた。
ヴァシリー・シナイスキー/BBCフィルハーモニックのその演奏の印象は「節度ありすぎ」。
ロマン的とかロシア的とかに不足する。でもそこがありがたい。
イギリス人演奏家のこういうマナーは何故可能なのか?どこから来るのか?
雑用をシモジモに任せて文化を純化できる、がっつかなくて済む階級の存在が関係するのか?
同じ階級内で同じ文化土壌を高いレヴェルで共有できてるから、多くを語ったり声を張り上げたりせずに済むのか?
落語で、語り口そのものに既に「さあほら今面白いこと語ってますよ」アピールのあるものは受け付けない。
漫才で「どーもーーー!」と声を張り上げながら登場するものは、その時点ではじく。
叫べば場が盛り上がるのではないし、そもそも場を盛り上げてくれとは頼まない。
まことに、イギリスの演奏家は全員、節度を失わない。
※脚注
追記(2018年03月21日)
あった!これだ!
こちらの御記事
の後半。
The terrifying roar of the lion after having “eaten the whole of the London Symphony Orchestra for breakfast, instruments and all.” Kit Williams "Book Without a Name" (referred to by Williams as "the Bee Book" Knopf 1984)
だそうです。