「失敗」と断じてうち捨てたスケッチを打込んでみた。
10年前の私の音を「解読」し、その意図を「解釈」しつつ、しばしばツッコミ衝動に駆られ、という以前に何考えてるのか解らない。
作曲の課題が何だったか、いろいろ思い出してきた。
そのうちのひとつが「旋法」で、まず、主メロの旋法ex.1を設定し、これをE♭の和音の上に乗せる。
全音符で示したのは中心になる音、()内はスルーされがちな音。
感覚で択んだ旋法だけど、E♭への「付加音」ばかりを択んで並べた結果だと、あとになって気付く。
曲終りの和音がex.2で、E♭と、ex.1に含まれる音を、全部同時に鳴らしたもの。
これはけっきょく、横に並べるとex.3のモードになり、これには以下の特性・属性がある。
①半音と全音が交互に並ぶ。
②したがって第1音から、第3音から、第5音から、第7音から、それぞれ始めた形が同じになる。
③E♭、G♭、A、Cの各コードについて、m、6、m6、7、m7、dim、等々のテンションコードを作れる。
このモード、要するに「コンビネーション・ディミニッシュ」またはメシアンの「移調の限られた旋法第2」じゃん、というのは後に知るところで、自ら探求の末到達した、という意識があるが、それまでにメシアンは聴いてて、耳から影響されてて、自力の探求もじつはメシアンの掌の域内なのだった。
問題は、探求すること、その末に「メソッド」を手に入れることは楽しいが、いったん手に入れると、以降ぎゃくにそのメソッドに沿うように書きはじめてしまう、なんかちがう、つまらない、ということ。
K太郎氏に
「エジプト女のためでなく」が「失敗」だったと断じたのでした。
いっぱんに、書きながらワクワクするとかハッとするとか、手応えを感じるとか、とはどういうことか?
私の創作における最重要キーワードは「poetic」です。
密度、低エントロピー状態、メリハリ、目覚ましさ、瞬発力。
対義語は「prosy」です。
瞬間瞬間の充実。
「エジプト女のためでなく」ではともすると、「段取り」のほうが優先してました。
モティーフを形や和声づけを変えながら何度も登場させる。
モティーフを、提示するのにも、何度も登場させて変奏して見せるのにも、時間がかかる。
曲全体をどういう構成にし、各変奏をどこに配置するか、のプランとか。
「時間がかかる」とは、作曲の「手間」のことではなく、「曲の長さが長くなる」という意味です。
それを「リフ」の上でやる。
リフがあるのはドビュッシー「エジプト女のため」が下敷きだからですが、リフが、「内発的な動き」よりも「外枠」を強調してしまう。
「段取り」優先で、曲が冗長prosyになった、と感じた、これが「失敗」判定の理由です。
いい曲は「できちゃった」感があるものですが、この曲は、いかにも「作った」感。
ただ、「瞬間の充実」、その瞬間がpoeticであることを保証するものが何なのか、は、まったく曖昧で、その場の感覚で「本能的に」択びとる/とらない、しかない。
そのとき何が私にとってワクワクか、その場に臨まなければ、わからない。
なにかの客観的な条件をクリアすれば得られる、というものではない。
poeticなひらめきに与れないスランプの時期だったから段取りに依拠した、ともいえる。
ひらめきに与れないまま音を重ねれば重ねるほど、連ねれば連ねるほど、音の物理的密度に反比例して表現としての密度は下がってゆく。
作曲というより、作業。
ただ、時間を置いて見直してみると、不毛、徒労と思われた「作業」が、意味をもって見えたりします。
「エジプト女のためでなく」でいうと、「モティーフを全部重ねて登場させて喧騒と混沌のピークを現出する」箇所は、まさに「作業」で書かれた「重ねれば重ねるほど」な箇所で、今回打込むにも最後まで気の進まない箇所だったのですが、やってみたら、効果も挙げたし、緻密な作曲を放棄したやけっぱち感が、好ましかったです。
一貫性を壊す。風穴を開ける。
閉じない。そういう箇所に聴こえます。
フレキシブル。
poeticとは何だろう?ということ含めてこだわりを捨てて、無防備な感覚でその場に臨む。
けっきょくは「自由」がすべてに優先するのです。
追記 2018年11月28日
その後この曲の「コーダ付き」ヴァージョンを作った際、旧ヴァージョンを削除しました。この記事に旧ヴァージョンを貼ってたのを忘れてました。「コーダ付き」に貼り直しました。
「コーダ付き」を作った時の関連記事: