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※追記あり※ ブレンディ CM 炎上

美術 マンガ 映像

(2015年10月02日、記)

 

 

これが炎上してるらしい。

(と、つべをリンクしたのですが、削除されました。2016年9月23日追記)

 

私は、大好きではなくとも、アリだと思う。

批判の中に「キモい」というのがあるが、キモく作ってあるものについて「キモい」は批判批評になってない。

 キモい・違和感ある・滑稽な設定を「わざと」貫徹してるわけで。

 

 

唯一、私も当初、「巨乳」を以て「乳牛としての品質」を表現した箇所に、眉を顰めた。

性搾取、しかも高校生未成年からのそれに対しては、批判を厳しくしてしすぎるということは無いかも知れない。

 

でも、この作品ではそこに至るまでに、他にいくつも「とんちんかん」を積み上げて来てて(配属先に「田中ビーフ」が当たり前のように組み込まれてるとか)、というかこの作品全体が意図された「とんちんかん」だ。

「巨乳=優秀な乳牛」の表現も、この「とんちんかん」の一環として見るべきだ。

作者はなにも、これを、正当とか、このままストレートに有効とか思ってるわけではないだろう。

とんちんかんを自ら戯画化して見せるメタな視点を感じる。

 

ここだけを殊更に問題視すること、バストの強調=性差別・性搾取という短絡、その一点を設定してこれに引っ掛かるものを端から機械的に糾弾してみせることは、そうしながら、ぎゃくに、人種や国籍や宗教や病歴や学歴によって人の価値を決めつける差別の構造と、奇妙に通底する。

そこに「批判精神」はないし、「ユーモア」の成立する余地はない。

 

 

この記事を「私はこのCMを見て、感動して、泣いた」という書き出しにしようとも思ったのだが、このCMを「キモい」と批判するのと同じ決めつけ・誤解の餌食になって、先を読んでもらえない危険を避けた。

どこで泣いたかというと、社名「ブレンディ!」が高らかに読み上げられる瞬間。

 

私は物語では泣けない。

人を感動させるのは「内容」ではなく見せ方の「技術」だ、というのは鉄拳さんのパラパラ漫画を見て痛感するところだが、私の反応のしかたは、私の音楽へのスタンスとパラレルかも知れない。

私は音楽の感動を、本来そんなものに感動してはならないもの=音の組み合わせに、否応なく感動してしまう、感動のメカニズムへの感動、だと思ってる。

「表現」された「内容」への感動ではなく。

鉄拳さんのパラパラ漫画には、例えば音楽作品において「冒頭のモティーフが終わり近くで再現されるとなぜか泣ける」のとまったく同質の感動を指摘できる。

 

ブレンディのCMにおいては、「感動のパロディ」のバカバカしいエピソードを、キモい設定に沿って微塵の揺るぎもなく積み上げ、ついに高らかな「ブレンディ!」に至って、全体がそれへの伏線であったと判明する、《仕組み》への、「純粋な感動」。

私はそこで泣けるのだ。

 

 

つまりこのCMは、ブランド名をアピールする「CM」として、全く成功してる、と思う。

  

 

2015年10月07日追記

 

私の敬愛申し上げるコラムニスト小田嶋隆氏@tako_ashiが、さすがにクリアにポイントを提示下さいました。

私の、用語法の浮足立った、未整理な記事を、御ツイートに乗っかって、言い直してみます。

 

御ツイート(10月4日):

 

で、私の立場は、

これはどこまでも「ブラックユーモア」であって、そのために「しみじみ物語の『パロディ』」を仕込んである、としか見えない、

その点で作者の意図は一貫してて、「しみじみ感動物語」の側に逃げられる作りではない、

これを「無造作」と見て気持ち悪いと評されては、作者としては立つ瀬がない、

です。