(2015年4月16日、記)
まずもって、曲は、作曲者の意図の通りに聴かれねばならない。当たり前だ。
「創造的誤解」を信じない。誤解は誤解だ。
たしかに音は生きもので、現実の空間での音の振舞いはどこまでも多義的だ。
その豊かな音の世界の中では、人為は、いかにもちっぽけだ。
でもだからこそ、作曲者が音の世界からどんな「意味」を掠め取って来たかを、よほど尊重せねばならない。
昔ラジオであるシェフの話を聴いた。
カレーは一晩寝かせると美味しくなるなどとんでもない、と彼は言った。
作りたてが一番美味しいに決まってる。これを如何にすばやく供するかが勝負だ、と。
(あるいはこの配膳の所要時間をも計算に入れるか)
彼のいう「美味しい」は「彼の意図どおりの味である」という意味だと思う。
「作る人」にしてみれば当然の意見で、自らのコントロールする「正解」を、誤解を介入させず、コントロールのとおりに味わってもらいたいに決まってる。
いっぽうで、一晩寝かせたカレーが美味しいのも、厳然たる事実と、私には思われる。
彼の言う「美味しい」と、こちらの「美味しい」とを、ごっちゃに論じてはならないのだろう。
彼のコントロールの及ばない所でカレーが美味しくなる。彼はそれを「美味しさ」とは認めないだろう。
音は、音楽作品の形に整えられてもなお、音としての振舞いを止めない。
もし聴き手が何の概念も持たずそれに向き合ったら、混沌だ。
というかいかようにも読めてしまう。
だからこそ、作曲者の意図を完全に尊重し、それに沿わねばならない。
いっぽうで、作曲者は、同じ理由から、自らの概念がごく一面的なものであるという謙虚、音の世界の無限の豊かさへの畏怖を忘れてはならない。
そのうえで「今回はこの線で行くんだ」という「潔さ」を貫くことが即ち「作曲」だ。
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