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鏡像、純粋、生身のヒト

(2015年7月19日、記)

 

 

鏡像について言えるのは、幾何学的に、面対称であるということだけだと思うのだけど。

左右とか上下とか言いだすから、ややこしくなるし、そもそも私は幾何学に左右上下という言葉を持ち込んではならないと思う。

 

 

私と、鏡に映った私とは、上下は逆にならず左右だけ逆になる、何故だ?という不思議がり方が不思議だ。

 

左右も上下も、どちらも逆になってないじゃないですか。

 

向かい合った像の片方を180°裏返して、開いて並べてみると、逆になる。

その時、鏡の右か左の縁を回転軸として横に開いて裏返すと、左右が逆になる。

上か下の縁を回転軸として縦に開いて裏返すと、上下が逆になる。

 

私=人間の像なので左右上下に目が行きがちで、生身のヒトは、「回れ右」の動作(=横に開いて裏返す動作)は非常に容易に行えるのに対して、頭上に開いて逆立ちしたり、床を突き破って頭を下にもぐり込んだりということ(=縦に開いて裏返す動作)は比較的手間で、そういう状態のヒトを見る機会は多くないので、よりイメージしやすい「回れ右」で、鏡像の謎を記述するのだと思う。

 

 

私が数学に求めるのは、それ自体が自律的で、純粋な世界であること。

ヒトの身振りが関与することで、純粋な思考が阻まれることのないこと。

 

そもそも鏡像問題は数学・幾何学の問題ではなく「心理学」の問題なのかも知れないが。

 

 

上下といえば、台形を求める公式として何年生だかで教わる中に出てくる「上底」「下底」という言葉も、けしからんと思う。

どっちが上?どっちが下?

教科書に描かれた図形の、たまたまページの上の方にあるのが上底?下にあるのが下底?

座標軸が与えられてない以上、そこにプラスの方向もマイナスの方向も無く、まして人の生きる空間の中で使われる「上下左右」という言葉をここで持ち出すのは、唐突で無意味で、数学の純粋を汚すものだ。

 

 

「長方形」「ながしかく」という言葉も、純粋に幾何学的ではなく、ヒトの認識のしかたの影響下にある。

1対の平行な2辺が、残りの1対の2辺よりも長いから「長方形」なんだろうけど、同じことを「後者が前者よりも短い」とも表現でき、随って「短方形」と呼ぶことも出来る筈だが、ヒトはそうしない。

長い物と短いものとがある場合、長い物の方に着目するくせが、ヒトにはあるらしく、このくせにしたがって人はこの図形を長方形と呼ぶし、それを自然のこととして殊更意識もしない。