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音楽におけるユーモア

音楽

(2015年10月13日のアメブロ記事に加筆)

 

 

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0分54秒からコーラスが、同じ音形で「赤坂見附を~」「丸ノ内線で~」と繰り返す。

この「で~」の maj7 感が好きなのに、ライヴではここのヴォイシングが変わってしまっている。

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キーは F。

同じ音形を繰り返す1回目「を~」の時のコードが F、2回目「で~」の時のコードが B♭なのだが、スタジオヴァージョンでは、コーラスはどっちも f と a(ヘ長調のドとミ)で、2回目「で~」では B♭の上に a が乗っかるので、B♭maj7(ファラドミ)になる。

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ライヴでは2回目「で~」の a が半音上がって b(ベー=Si♭、ヘ長調のファ)に変わってて、コードとしては maj7 ではないただの B♭になってる。

 

たった1か所、たった半音変えただけの差なのだが、ここが、作曲発想にとっての分水嶺なのだ。

 

(じつはスタジオ盤の「で~」ではベースが g、つまり B♭maj7 ではなく Gm9(レファラドミ)であることにあとで気付いたが、話がややこしくなりすぎるので、このまま進める。本筋には影響しない。)

 

 

いっぱんに、音の重ね方において、内側から、ディテールからの発想を優先すること。

 

自律的な声部が、それぞれ固有の都合で動く。

何本かの声部がたまたま出会い、重なって、結果として和声を生む。

 

コードを、1小節なりの長さ持続する「外枠」としてまず想定して、そこに合致したり外れたりしながらメロディが進む、というのと真反対の発想。

 

コードはその都度、メロディの動きに即して、瞬間瞬間に生まれ、つねに移ろってゆく。

 

対位法の発想vs.和声の発想と言ってしまえばそうなんだが、対位法と言いながらそのじつ予め和声の外枠が想定されていて、和声の辻褄に合わせて声部を動かす、和声に従属する対位法、がありがちだと思う。

もっと「自然」で「自由」なもの。

 

 

「地下鉄にのって」の件のコーラスは、スタジオ盤では、コード進行おかまいなしに自律的に、同形を繰り返す。

結果、「で~」の箇所で、「ド、ミ」が「B♭」と出会って、B♭maj7を生む。

 

ライヴのほうは、コードが先に発想されているために、そこへの「辻褄合わせ」が行われ、メロディの自律が死んでいる。

 

この1か所の半音の差は、私にとって、作曲へのスタンスをめぐって、こっちの陣営かあっちの陣営か、の差なのだ。

 

ライヴの現場の事情から、よりくっきりとした=たんに音程を外したと誤解される危険のないヴォイシングが選ばれた、のかも知れないが。

 

(あ、もちろんこの「地下鉄に乗って」という曲全体が、私のいう「本当の対位法」に基づく作例、という訳じゃないです。この「で~」1か所への私の反応、この箇所をきっかけに私が思ったあれこれ、を書いたものです。)

 

 

音楽におけるユーモアとはなにか。

 

「私の作曲の本質は『ユーモア』です」というと、怪訝な顔をされ、自称ユーモア、と揶揄された。

以後「ユーモア」を「仕掛け」と言い換えることにしたのだが、どうもユーモアというとコミカルソングとか冗談音楽とか、さもなくばザッパの "Does Humor Belong In Music?" とか、を想起されるようだ。

その向きには、ハイドン的ユーモアとか、武満の「吉田秀和さんは武満の音楽にはユーモアが無いと仰るけど、自分ではそうとも思ってないんだ」問題の論点の在処とかは、ピンと来ないだろう。

ベートーヴェンなんてとにかく仕掛けまくる人、執拗なユーモアこそ彼の作曲のすべてだ。

 

同じ f、a の音を、F上、B♭上に置いて、価値を変えて見せる。

これもささやかなユーモアだし、じっさい頬が緩む。

 

もとより、作曲というのは、同じものを別の文脈に置いて、価値をズラしたり反転したりする操作の体系のことだ。

で、私は、これを殊更に「ユーモア」と呼ぶのだ。

音楽におけるユーモア、ではなく、音楽イコールユーモア、と思ってる。

 

 補遺→

shinkai6501.hatenablog.com