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最後の一音は響くに任せる

(2015年8月19日、21日、記) 

 

Ⅰ.

 

室内に届いてきた遠くの音。

拡声器からの何かのメロディのようなそれを、もっと鮮明に聴こうとして、窓を開ける。

とたんに環境音の洪水が流れ込んできて、目当ての音は却って、その中に埋もれて聴こえなくなってしまった。

 

思えば、室内にまで届いてきたのは、窓のフィルターに遮られることなく通過してきたスペシャルな周波数で、環境音総体の中では、その一構成要素に過ぎないのだ。

 

音楽を、こういう経験を除外して考える事も出来る。音楽はどこまでもアーティフィシャルな音の操作の中で自己完結し得る。

でも私はこういう、現実の空間の中での、なまものとしての音の振舞いを、面白がってしまう。

 

 

Ⅱ. 

 

減衰してゆく音に耳を澄ますのが好きだ。というかそうする癖がついている。

CDを聴いても、最後のフェイドアウトや、リヴァーブが、完全に聴こえなくなる瞬間に立ち会おうとする。

なんか、その瞬間を聴き逃すと、それまで1時間聴いてきたことが、全部無駄になる、とすら感じてる。

 

現実の環境には必ず、微かなノイズのバックグラウンドが敷かれてる。

減衰してゆく音が聴こえなくなる、とは、音量が0になることではなくて、音量でノイズのバックグラウンドを下回る、ということ。

こういうスレッショルドを1本設定することで初めて、「音場感」「レンジ感」が生まれ、音に「奥行き」を感じるようになる。

 

減衰する音は、「消える」のではなく、スレッショルドの向こう側に「還ってゆく」。

 

 

音量の大小や音楽的な強弱だけでは「奥行き」は生まれない。

私はオーディオのことは全く判らないが、「原音再生」幻想とかあるのかな?

でも、やはりオーディオの命題のひとつなのであろう「S/N比の最大化」は、これと矛盾するのではないか?

オーディオ的に理想的なS/N比最大の空間は、抽象的で、原音再生どころか、現実の音場とはかけ離れてる。

さっき言った、音が向こう側に「還ってゆく」という感覚は、なにやら「いのちの循環」のメタファーめくけれども、こういう意味付けも、オーディオ抽象空間の中では不可能だ。

 

そもそも音に耳を澄ます行為は、環境の中から音を聴き分ける、「いのち」に直結する行為だった。

音場の「奥行き」の中で、特定の音との間合いを測る。

「奥行き」を度外視した「大小」「強弱」だけでは、私たちは音を評価することができない。

音楽についても、「いのち」の原初を忘れて考え進むのは、危険だ。

 

 

敬愛するアッシュさんとのなうでのやりとりで、私が、ガムランのグンデル奏者が「叩くと同時に前の音を左手で押さえて止める、ということを、あの速い演奏の中で1音1音必ずやるのがすごい」と申し上げたのに対して、アッシュさんが

 

「ほんとうにすごいと思います。でも、楽器の構造は、鍵盤(?)を叩いて出る音が長く響くように作られているのですよね?」

 

とご指摘下さって、本当にハッとしたのだった。

さらにアッシュさん、

 

「最後の一音はミュートしないで響くに任せるんでしょうか。」

 

重要なご指摘!そこのところは気になってた気がします!でもはっきりと意識に載せて考え直してなかった。

本質を見抜く方だなあつくづく。

 

それまで1曲を通してあれだけ偏執狂的強迫神経症的に1音1音ミュートして、曲の隅々まで意識のコントロールで支配して、最後の1音は「響くに任せる」。

あの余韻に浸る時の満ち足りた気持ち。

「演奏」と「最後の余韻」、「人為・意識」と「自然」とが、相互に補完して一つの世界を作る、むしろこの「最後の余韻」こそが曲の本体、「演奏」を包摂しこれを成り立たせる大きな世界、なのではないか、とすら。

ガムランの、ときに長大な叙事詩全体の過剰な音の積み上げも、けっきょく最後の1音に至るため、その「減衰」に耳を澄ますためにあるのではないか?とふと思う。

 

 

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