座右の銘

私の座右の銘って何だろう?

何だろう?と問うくらいだから決めてないんだけど、

「こまけえこたあいいんだよ」

は、日常生活のいろんな場面で、気付くと口走ってる(独り言で、自分に向かって)から、これかも知れない。

ここで問題なのは「『細かい』ことが凡ての場合においてよくない」わけではない、ということ。

よくないのは、本来何が目的だったかを忘れること。

「細かい/細かくない」ではなく「合目的的/非合目的的」の問題。

 

ことさら「日常生活の場面で」と断ったのは、芸術の場合は逆だから。

芸術には目的が無い。細かさにこだわることそのものが芸術だったりする。

 

あるブログでフェルメール展のことを書いていらしたのでコメント差し上げたところ、

ごめんね

難しいことは理解できないの

と返信を頂いた。

もちろん御ブログはその方のもので、私はお邪魔させて頂く立場なのだけど、私が「大事なこと」と思って書いたことが「難しいこと」の一言で片付けられたことを、残念に思った。

私も、もちろん、徒に話を難しくしたり、難しく書くことがかっこいいことと勘違いしたりする「衒学」を嫌う。

ここでの問題は「難しい/易しい」ではなく、フェルメールのキモに迫るために「大事/瑣末」だ。

#子供の頃怖かったもの ②

前回と全然別の話として。

 

怖い対象に出会ってそれへの反応として怖いという感情が起きる、のではなく「怖い」が自律的に起きるとか。

 

自室の見慣れた、例えば帽子か消しゴムを見て、「怖い」が起きる時があって、その理由を自分でも説明できないとか。

危害を齎す/齎さないとか、正体が判らない/判るとか、日常の理路で怖いものと怖くないものを区別して安心してるところへ、別な「怖い」が忍び込む。

でもそれは決して「危害を齎さないと思ってた消しゴムが突然襲ってくるかもしれない」とか「帽子と思ってたものの正体が異星人の刺客かも知れない」とかではない。それはまだ「日常の理路」の範疇だ。襲われても拉致されても怖くない。それはまだ「こっち側」の出来事だ。

 

子供のころに限らない。今もある。 

感情の一時的なバグなんだけど。

#子供の頃怖かったもの



 

過去記事2つ、色々書き方を試みてるけど、もう少しシンプルで、もう少し判りやすい比喩を思い付いた。

どのみち比喩でしか言い得ない事柄なんだけど。

 

私は創作の中のキャラだった。

ところが自我意識を持った。

自分が作者によって作られたキャラであることを知らなかったのだが、あるときふと「自我とは何だろう?」との疑問を持ち、自分の内側へ降りて行った。

そして真相を目の当たりにしてしまった。

自我の何たるかを知ることが即ちそのまま自我が実は無であることを知ることだった。

見てはいけないものを見てしまった。急いで引き返して、封印した。

 

というニュアンスです。