夢・2018年10月07日

10月07日の夢。

しばてつ曲みたく奏者がサインを出し合ってインプロを進めるライヴのリハがこれからある。今沢カゲロウなど、キレッキレのプロたち。私はケツカッチンでリハだけ参加。リハでも本番同様マジな丁々発止の音楽が展開するはず。「リハ」と「リハのリハ」の境目は曖昧。プロの指示のもと整列するシーンなど。内部構造をもつ広いスペースを大人数が移動してゆく。過去に同様のライヴで巡ってきた状況(会場内のロケーションとか、音の重なり方とか)をなぞって再現することを試みる、そうできるタイミングを待ち構えるシーンなど。

 

前日にツイッター今沢カゲロウの動画が回ってきたのが影響してる。

にしても「リハだけ参加」が許される事情が謎。ライヴというよりワークショップに近いのだろうか?

リアで、昔、インプロのライヴに加わった時期があるけど、苦手というか無理。方法をもたないままの誤魔化しにしかならない。今回の夢では、私の意識はどうあったのか。プロと伍してやれる気持ちの余裕をもって臨んでる節もある。でも本番に参加しないと決めてるのは、通用する自信がないのでエクスキューズでケツカッチンということにしてるのかも知れない。

「内部構造をもつ広いスペースを大人数が移動してゆく」のは明らかに、先日観た CASO での "In C" の動画の影響。

#完全に一致ではないのだが何となく似てる

というお題がいちばん難しい。

本当に似てると「完全に一致じゃん」と言われるし、といってたんに似方が程々なだけでは笑えない。何かポイントを捉えないと。

似てる筈、と思い当たって画像を並べてみると実際にはそれほどでもなかった、という例が今まで夥しくあって、このハッシュタグをこれ幸いと放出を目論むも、どの例も面白味のポイントを欠く。

 

私の中では難波弘之さんと榊原るみさんは似ている。

私の環境だと、難波さんの画像は日常、積極的にアクセスしなくとも、それなりの頻度で流れてくる。榊原さんの画像は、もう何年も見ていなかった。そうすると、私の中で榊原さんの面影が難波さん寄りに修正されて、いざ検索してみると、榊原さんにいちばん似ているのは榊原さんではなく難波さん、なのだった。

 

あと、石井一久さんとアラン・ホールズワースとか。

後藤真希さんとスティーヴ・ハウとか。

大越健介さんと亀田誠治さんとか。

ニール・モーズとシャルル・デュトワとか。

ティーヴ・ハケットとヘルベルト・フォン・カラヤンとか。

 

これの 0'16" 目~が、 

れの 0'56" 目~に似てないか?

'A Horse With No Name' がレジデンツ "The Third Reich'n Roll" で引用されるとか、半獣神の午後の CD 未収録初期曲「交差点」が 'Material Girl' のリフをパクってるとか、プログレの話題に持って行くことも出来るけど。

 

似てると何故笑えるのか。ダジャレにせよ、物真似にせよ。

たぶんたんに似てるだけではダメで、一方が他方への批評になってなくてはならないんだろう。批評の対象は「権威」である。

いっぱんにユーモアとは権威の化けの皮を剥がすことである。

本当の真実と見せかけの真実を見極め、前者に随い後者を斥ける。

宇宙の仕組みは「きまりごと」で、ヒトはそれに随う。

ローカルな権威が、ローカルなくせに、自分の都合のために持ち出す普遍・真理は「きめごと」で、これを打倒する欲求はヒトの「生理」で、この営みをユーモアと呼ぶ。

漢字にするか仮名にするか

漢字にするか仮名にするか迷うことがある。

でもこれは「漢字か仮名か問題」ではなく、「素通りされないためにどうするか問題」なのだ、と気付いた。

 

「意識を留めてもらいたい」箇所なのか、逆に「字義に引っ掛からずさらっと流してもらいたい」箇所なのか。

前者を漢字、後者をひらがなにする場合が多いけど、漢字で書き慣わされてる句は仮名にするほうが却って「引っ掛かる」場合もあり得る。

 

おもに、副詞を接続詞的に使う時に、これが問題になる。

「要するに」を「ようするに」になさる方が多い。私はこれを漢字で書く。

私は本当に、「ここから大事な要点です」という意識を強く持つから、本当に「要して」るから、漢字にする。単なる間投詞ではないのだ。

 

「一般に」を私は仮名にすることがある。「個別・特殊」の例を挙げてそこから帰納して「一般・普遍」を述べる場合。

「一般」には、小数のセレブではない「一般人」的な意味が沁みついてるので、それを払拭して純粋な本義に戻す意図で「いっぱんに」にする。

 

場当たりの判断で法則性は無いし、効力は疑わしいけど。