日記(ことば)

有明の月=夜明けになお空に残る月」と対になる語は何だろう?とググったが、即座には見つからない。

 

「暮れる前に既に見え始めてる月」の名称が、無いか、あっても「有明の月」ほどは使われる形跡が無いのには、理由があるのだろうか。

 

有明の月の場合は、まずそこに月があることが認識されてる。月に殊更の興味を寄せるまでもなく、月は否応なしに見えている。

くっきりと見えていた月が、明るさを増す空に徐々に溶けて、最後に完全に見えなくなる瞬間が訪れる。観察者はその瞬間を待ち構えて見届けることが出来る。

 

逆に、次第に暗くなってゆく空に最初に月が見え始める瞬間を捉えるには、事前によほど月の暦についての下調べをして「待ち構え」ねばならない。殊更の興味を寄せる者だけが、月が見え始める瞬間に立ち合うことが出来る。

そこにまだ見えていないものを予期する能力。

 

 

11月31日は、「いい(11)犀(31)」の語呂合わせで、犀の日だ。

「いい差異」でデリダの日、とか、「いい散逸」でプリゴジンの日、とかのスカしたシャレを飛ばすには、私は学が無い。

ドビュッシー「遊戯」 ※本文より長い追記をしました※

ドビュッシーストラヴィンスキー春の祭典」に戸惑った。「方向を間違えてるんじゃないか?」みたいな評だったと思う。

これは、「感覚の自由の権化」ドビュッシーですら(「ペトルーシカ」までを手放しで絶賛してた彼ですら)戸惑うほど、「春祭」が従来の美学を踏み越えてた、というエピソードではあるんだろうけど、もう一つの理由かも知れない経緯がある。

ドビュッシーの最も「進んだ」オーケストラ作品は「遊戯」だけど、その初演の2週間後、同じ場所、同じ演奏家で「春祭」スキャンダルがあり、その陰に隠れて、「遊戯」は一旦完全に忘れられ、その先進性の正当な評価がずっと先になってしまった。

(最初の商業録音は、戦後、初演から34年後の1947年、サバタ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団によるもの。)

(精緻を極める「遊戯」が、真逆の「曖昧模糊」という評を得てしまったのには、団員の理解が及ばず不十分な演奏だったから、という理由もあるようだ。まあ、この前例のない音楽を初演するのは、「取りつく島の無い」困難だろう。)

その経緯があって、ドビュッシーは「春祭」に厳しくなってしまったのではないか。

Debussy 'Jeux'

Pierre Boulez / Cleveland Orchestra

 

 

追記2017年12月01日

書き直すか新たに1記事書くかしようとも思いましたが、追記にします。

 

周知のことなので端折りましたが、「遊戯」「春の祭典」の初演はともに、バレエ・リュスの公演です。

1913年、シャンゼリゼ劇場杮落としの目玉として、ピエール・モントゥー指揮で。

「遊戯」が5月15日、「春祭」が5月29日。

 

ブレーズのつべを、1966年録音の New Philharmonia Orchestra にしなかったのを悔んでいました(クリーヴランドのほうは1993年録音)。ブレーズの演奏は毎度、譜面に書いてある音が全部聴こえてくるような、その全ての音の、コンポジションの中での意味付けが明晰であるような「作曲者目線」のもので、ドビュッシーにおいても印象派的もしくは象徴派的な「雰囲気の描出」と全く無縁ですが、その点で NPOとの旧録のほうがより過激です:

 

今これを見つけましたが、データが不明です:

 

NPO のは、1967年リリース当時まったく新しい解釈としてびっくりされたと想像しますし、私個人もこの演奏に出会って耳が洗われました。

「遊戯」を知った最初はマルティノン/フランス国立管『ドビュッシー管弦楽曲全集』でした。明晰で、正しく音化されてはいますが、曲の良さがピンと来たのはクリュイタンスででした。

(演奏者のマルティノンが「全集の一環として、個々の曲全てに集中力と共感を注ぐのは不可能で、やっつけにならざるを得ない」のか、あるいは聴き手の私が「全集の一環として、個々の曲全てに集中力と共感を注ぐのは不可能で、やっつけにならざるを得ない」のか。後者です)

パリ音楽院管弦楽団で『ラヴェル管弦楽曲全集』を出してるクリュイタンスですが、ドビュッシーの録音は少ない。でもその中に「遊戯」がある。色彩的で、フレーズの一々をしっくり納得しつつ聴けて、魅了されました。

(いったいに、クリュイタンス/OSCC は響きがだぶついて、好みではないのですが)

そこにブレーズ/NPO との出会いがあって、「全然違う!」とびっくりしたのでした。

「CD聴いてる」より「譜面読まされてる」に近い感覚。

初演者モントゥーはこの曲をスタジオ録音しませんでしたが、ライヴ録音がいくつか残ってるようです。実家にはボストン交響楽団とのLPがありました。

アンセルメ/OSR は、私が聴いたのは、モノラル(1951年録音)とステレオ(1958年録音)の2種類。モノラルの方は、内側から湧くパワーで音楽を推進するような「力感」があって、フレージングにも「筆勢」があるのに対して、ステレオの方は、スタティクで、見事に各フレーズ各パート鳴らし分けた演奏が、まるで「当時のデッカの録音のハイファイさ、分離の良さをデモンストレイトする目論見ありき」に聴こえてしまいます。

記憶と嗅覚

5年前の発言なので解読が必要だ。

嗅覚と記憶との関係は、視覚や聴覚と記憶との関係とは違う、と言ってるらしい。

映像や音は、現物が目の前耳の前に無くても、ありありと思い浮かべることが出来る。

匂いの場合は、現にそこに無い匂いをありありと思い浮かべることは出来ない。

そのように「感覚について記憶する」という方向では、嗅覚は、視覚や聴覚ほど記憶との結びつきが強くない。

でもぎゃくの方向、「匂いが記憶を喚び覚ます」力は、「映像や音が記憶を呼び覚ます」力よりも強い、と言ってるようだ。

 

実際の匂いに出会えば、はっきりと、過去嗅いだことのある匂いだ、と識別できる。

未分化だった「香りの洪水 匂いの海 ノイズの雑多」。

いったん、ある特定の匂いの「周波数」を嗅ぐということは、この同じ「洪水・海・雑多」のマッスの中から、その周波数をピックアックして識別できるようになる、ということだ。

そしてそれをスイッチとしてそれに纏わる記憶が喚び覚まされる。視覚・聴覚によるのよりも強く、生々しく。

 

ほんとかな?