ゲイトタイム 100%+α

團伊玖磨作曲、丸山豊作詩、混声合唱組曲海上の道』4.「漂着」

「河口」の、メロディを歌う楽しみ、ハモる楽しみに較べ、この曲では高度なアンサンブル力が求められる。

作曲として、「河口」の素直な和声と似つかない、脈絡の見えない転調をするし、パート間の噛み合いが、「河口」のメロディ単位の長閑なやりとりと次元を異にする。

精緻な作曲は、精緻なアンサンブルによらないと、途端に収拾つかなくなる。

テンポ速いし。

動画は咄嗟にこれしか見つからないけど、これで良いと思う。完璧な演奏。

当初、やけにさらっとした演奏だなあ、と物足りない気がしたが、この難曲をこんなにさらっと聴かせるって、凄いことだ。

 

團伊玖磨作曲、丸山豊作詩、混声合唱組曲筑後川』第5楽章「河口」

この曲は動画がたくさんある。こっちのがよく知られてて演奏頻度も高いのかなあ?

私は叔母から「N響と東混の録音で感動したためしがない」「やっつけ仕事」「こいつら本当に音楽愛してんのか?」(意訳)と悪口を聞かされて育った。

完璧だし作り込んでるし感動的だと思うがなあ。

 

で、以下、本論です。

上の「河口」の動画、2分57秒目「有明の海へ」の「へ」を「2.5拍伸ばす」ことについて。

これは「この小節の3拍目まで伸ばす」ことなんだけど、「3拍目いっぱいまで伸ばす」ことはイコール「4拍目の頭を確認するまで伸ばす」ことだ。

ゲイトタイムを100%にするということ。次の拍の頭を確認するまで、だから、それより少し長くなるくらい。

ここを素人が歌うと、3拍目半ばで延ばすのをやめてしまう*1

この動画の東混さんもやっちゃってますね。

(さっき完璧言うたやん)

この箇所はとくに、表現としても、強さを保ったまま、気持ちとしてはむしろクレシェンド気味に、2.5拍の最後を見届けるまで押し切って、最後に「っ」を入れるくらいの気持ちでスパッと止める、べきだ。

 

関連記事:

*1:演奏において、ステップタイム(時間軸上の「点」)とゲイトタイム(時間軸上の「長さ」)って、区別できてるの前提だよね?数学的センスの問題かなあ?

制約

ピグワールド「ニュータウン」エリアに小学校を建てた。

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はじまりの街」エリアの小学校にスペースを割かなかったのを悔んでいた。

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たんにスペースの多寡の問題ではない。発想の違い。

「制約の中でいかにクリエイティヴィティを発揮するか」と、「制約を外してやれること全部やる」と。

 

「制約の中で」というのは、美学ではあるし、私はそちらに傾きがちだ。

ことにアメーバピグは、ゲームのプレイに必要な最小限のサーバを確保してないので、街を「軽くする」ことに配慮せざるを得ない。

でも他所の、制約(土地の広さの、サーバの容量の)を気にせず全部とことん盛り込み、規模が大きく、しかも細部の作り込みのために「デコ」を総動員した「街」を拝見すると、自らのイマジネイションの萎縮を思い知る。

そういう「街」は、読み込みに時間がかかるし、動作が緩慢になるが。

 

 

国の芸術のクォリティを極めるのに、人件費の「制約」を外してやってみることは、いったんは必要だったと思ってる。それを可能にしたのが天皇の存在だったと思ってる。

今の天皇にその力は無い。歴史の話(正倉院御物とかそういうのをイメージして言ってます)。

天皇のおかげで可能になった芸術なら要らない、という立場もあろう。

収奪も人権の侵害もあっただろう。

芸術は、クォリティの極点を見るために、いったんは、人権の上位に自らを置き、それを侵害してでも徹底的に突き抜けねばならない時があるのだ、と私は思ってる。

 

 

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バスケコートのように見えるのはバーリトゥードのケイジです。

過小評価されてるかも知れない2枚

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鈴木さえ子ラヴェルかもだけど、美尾洋乃ドビュッシーだぜ。

Solid から出た美尾洋乃の2枚のソロアルバム「フルーツ・オブ・ザ・ムーン」と「クロエ」。

就中2枚目「クロエ」、音楽の不可能性に苛まれてた私は、これを聴いて、もう一度音楽の力を信じられるようになったのだった。

 

これらソロ作が世間でどのくらい知られててどう評価されてるか、知らない。もしかしたらリアル・フィッシュやミオ・フーほどは有名じゃないかも??

 

ここは重要なところなのだが、曰く言い難い。

私の勝手な印象として。

むろん鈴木さえ子の作曲は実に立派だし私の趣味に合致もする。

だが、美尾洋乃は、音楽の「象徴」の力が言い当てている「深さ」が、まったく別次元だと思う。

ラヴェルよりもドビュッシーショパンよりもシューマン、リムスキーよりもムソルグスキー、マッカートニーよりもレノン、という方には、美尾洋乃の2枚のソロアルバムは、切実に重要な音楽たりうるのではないか。

そして、バッハ「平均律クラヴィーア曲集」やドビュッシー「プレリュード」は第1巻よりも第2巻、あるいはシュトラウスサロメ」よりも次の「エレクトラ」を取るように、「クロエ」は、前作と同傾向でいて二番煎じではなく、より「深く」を言い当ててる。

もちろん鈴木さんは浅薄じゃないし、美尾さんは不器用じゃありません。念の為。

 

つべにこれがあった。1か月前に上げたて。

私は「約束の天使」「睡蓮」のほうが「深い」と思うけど、とにかくアップ主様に感謝!

 

これは以前から拝聴してた。

 

追記(2019年11月23日)始め

その後「睡蓮」がアップされた。

追記終わり

 

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私のニック・メイスン観は「ピンク・フロイド中唯一のカンタベリー人脈」。

いっぱんにバンドの「音響」の斬新はキーボーディストに帰して考えがちだが、VCS3を買ったのはたしか(リック・ライトではなく)メイスンだったと記憶する。

私のプログレ入門は『狂気』だった。そのオープニング曲 'Speak To Me' はメイスン曲。

つまり私の耳に最初に鳴ったプログレは、この、心音に始まるサウンドコラージュだった。

当初はこれが「音楽」の範疇なのか、戸惑った(小学6年生でした)。実際のところは、これと、これに導かれてメドレーで始まる次曲 'Breathe' の「音楽的な」美しさとのギャップに感動したのだった。

 

メイスンの仕事の中で、ソロアルバム "Nick Mason's Fictitious Sports" がどのくらい知られててどう評価されてるか、知らない。

私はピンク・フロイドは(『狂気』がプログレ入門だったとはいえ、またシド・バレットは別として)ピンと来ない。このメイスンのソロアルバムの「ポップな諧謔」のほうが、私にとって「プログレ」だ。

作詞作曲は全曲カーラ・ブレイだし、メインヴォーカルはロバート・ワイアットだけど。

 

そして白眉はアルバム中で異色のこれ:

 

 

以上、今回は「言葉が上滑りして、言いたいことを的確に言えてない」感があり、更新が滞った。

でもじつは「言いたいこと」がもともと上滑りしてるのだった。

空疎を充実と言いくるめるために、ヒトは、私は、言葉を発するのではない。

空疎のまま提出する。