昨日の続き

昨日のドビュッシーのヴァイオリンソナタの話

shinkai6501.hatenablog.com

の続きです。

 

第3楽章では、16分の9拍子の性急な舞曲が繰り広げられます。

 

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フィナーレの最後、ピアノパート B´ は、パッと聴き、この舞曲のヴァイオリンパートを受け継いでいるように聴こえます。

 

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ところが、さっき気付いたんですが、これは寧ろ第1楽章冒頭で提示される主要主題に発してる。

A´ が↓の譜例の の変形であることは昨日書きましたが、 B´ は の変形なわけです。

 

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ということは、16分の9拍子の舞曲のヴァイオリンの音形、出だしの g→a→h→c という動き自体、そもそも主要主題に発してると見るべきだ、と今更気づいたのでした。

参照と連想

この2曲は、メドレーでもあるし、モティーフ的にも繋がりがある。

すなわち、'The Light Dies Down On Broadway' のイントロの gis - fis - cis - fis

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が、'Riding The Scree' のコーダ(3'35"~)で、音価を変えて、

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と変奏される。

 

「Woman "Wの悲劇"より」

作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂松任谷由実)、編曲:松任谷正隆、歌:薬師丸ひろ子

1984*1

この曲、前掲のジェネシスの2曲を参照してるのではないか?

以下の2つの点がそう思わせる。

① イントロの、コード進行と、分散和音的反復で刻むアレンジと、雰囲気が、'The Light Dies Down On Broadway' のイントロに似てる。

'The Light Dies Down On Broadway' では、パッドのコード1つの長さが4拍、それを8分音符で刻む。「Woman」では、パッドのコード1つの長さが2拍、それを16分音符で刻む。つまりどちらも8等分に刻んでて、前者を倍速にすると後者になる、という感じ。

コード進行は、どちらの曲も、

[ⅰ → Ⅶ → Ⅵ → Ⅶ] ×2

で、パッドのコードが移り変わっても、刻みのパートが、変わらず持続する音高を含むことも共通点*2

② サビ(1'09"~)の歌メロの音形が、'Riding The Scree' のコーダに似てる。

この Genesis の2か所ははまさに上掲の2か所で、ということは、もしかしたら、作曲者呉田軽穂(か、編曲者松任谷正隆か、どちらかあるいは両方)が、Genesis 曲の2つの箇所の関連を分析済みだったのでは?というところまで憶測してしまう。

 

プログレ用語としての「シンフォ」の意味は私にはちんぷんかんぷんだが、ジェネシスは、語本来の意味で「シンフォニック」だ。

部分と部分、部分と全体が、有機的に結びついて、響きあうさま。

ひらたく言って「モティーフの処理が巧みであること」。

'The Fountain Of Salmacis' や、殊にアルバム "The Lamb Lies Down On Broadway" がそうで、いくつかのモティーフが、何度も再現し、その度にアレンジや和声的意味付けが変わってる*3

前掲2曲の例示した箇所も。私はこの例から、ドビュッシーのヴァイオリンソナタを連想する。

第1楽章冒頭、ヴァイオリンの弾き始め、テーマが、緩やかに、密やかに、提示される(ここの強弱の指示は「p」です):

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これが、第3楽章(フィナーレ)の最後の最後、ピアノの右手に、

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「レシソシソミレシソシソミレシソシソミレシソシソミ!」と「f」の16分音符で、けたたましく再現する。

 

補足の関連記事:

*1:"The Lamb Lies Down On Broadway" のちょうど10年後。

*2:「Woman」のほうでいうと、パッドのコードは

Cm → Gm 第1転回(つまりいちばん下の音がB♭)→ A♭maj7 → Gm 第1転回

で、そこに乗っかる刻みのパートはずっと変わらず

c、低い c、f、g

で、Cm に対しては f が、Gm に対しては c、f が、A♭maj7 に対しては f が、それぞれ付加音になる。Gm 第1転回に f が付加されるとすなわち B♭6 である。

*3:そもそも 'The Light Dies Down On Broadway' という曲は、タイトルからしてアルバムオープニング曲 The Lamb Lies Down On Broadway' のリプライズという性格が強いのだが、同時に 'The Lamia' のリプライズでもある。'The Light Dies Down On Broadway' のAメロは、'The Lamia' のBメロの使い回しである。

メロディについて

この御ツイート

 に、沿うのか逸れるのか、私なりに言ってみます。

 

メロディをメロディそのものとして聴けるほど私の耳は純粋で中立か?

 

まず、メロディは要素として、音高(音程)、リズム(符割、ステップタイムとゲイトタイム)、強弱を含むけど、ここではその中のとくに音高について。

 

メロディを作るとは、音を並べる時に、前後の音程関係を選ぶこと。

その時に、まず《外枠》として、小節単位のコードなりスケールなりが想定されてて、それに沿うようにメロディを運んでしまうことがある。

ド→ファ♯というメロディの運びを選ぶ時、最早、耳を、リディアンスケールという《外枠》からニュートラルな状態にして、音程そのものとして聴くことが不可能なほどに、私の耳はコード理論・スケール理論に汚染されている。

 

ひとくさりの音の連なりを示されたとき、その中のどの位置にどの音程が来るかで、その音の連なりのどこにトナリティの中心があるかを感じてしまう、というのがスケール。

増4度音程を聴かされた時に、無意識裡に、そこから推し測って主音の位置を探してしまう。

そこから自由になれるか?

 

もしコードなりスケールなりから解放された耳で、音程を、メロディの運びを、選ぶとしたら、そこに働く原理は何なのか。

「私の耳の責任で選ぶ」ということ。

コードなりスケールなりはセオリーだ。

本来、メロディを作るとは、そのまますなわち私の世界を示すことであって、私の耳、私の世界がまず無ければ話にならないのであって、セオリーに責任を委ねることとは、真逆の営みの筈なのだ。