メモ(作曲と演奏、クラシックとジャズ)

私にとって、音楽≒作曲。

 

クラシックでは作曲者がいちばん偉いに決まってる。演奏者の仕事は、作曲者の意図を正確に形にすることが全てだ。

と思ってるので、私のNHK交響楽団の評価は高い。身近にN響を貶す方が多いと前に書いたが、思い当たるのは、じゃあ逆にどのオケならいいのかというと、アバドルツェルン祝祭管弦楽団なんだろう、ということ。

ソリストの選抜オケ。積極性の塊。いや勿論私も最大に評価します、その積極性と、途轍もないクォリティを。マーラーとか。弾きたがり集団故に、ときに過剰なまでに、鳴る。積極性とクォリティ、日本だと小澤/サイトウ・キネン・オーケストラがこれにあたる。

 

トロント交響楽団と「トゥランガリラ交響曲」録音中、脇からいちいちダメ出しして来るメシアンにキレて、小澤が「うるせえ!指揮者は俺だ!」と言い放った、という話は、話として面白いけど。)

 

アメーバピグの音楽フロアでよくクラシックのお部屋をお立てになる方がいらっしゃる。ある時ブレーズ指揮のものをお掛けになって、その方には珍しいなと思ってると案の定「オケが十分鳴ってない。シカゴ響なのにもったいない」とおっしゃった。

「オケを鳴らす」ことをクラシック演奏の目的にしてどうするんだよ。

そういう聴き手はオケ好きにはある割合いそう。

 

(私は「ある割合」を「一定割合」と言わない。「ある程度」の意味で「一定」と言い始めた奴は誰だ?)

 

ジャズは、クラシックよりは、演奏者のものなのかも知れない。私がジャズに馴染みを持たずに来たのはそのせいかもしれない。マイルズの 'So What' に泣けたのは、モード・ジャズの提示=曲を構成する原理の刷新、にであって、演奏内容についてではなかった。

 

むろん作曲と演奏とを峻別は出来ない。ジャズは「演奏者のもの」というより「演奏即作曲であるもの」なんだろう。

音楽と救い 音楽は救い

「癒し」という言葉を蔑視するのは言わずもがなだが、その私が、音楽に「救われた」と発言することが少なくないのだった。

私が救われるのは、「表現」の対極にある、純粋に音の戯れであるような音楽に。

ハイドンとか。

ある時救われたくてクラウトロックに目星をつけディスクユニオン神保町店に赴いた。初めて知る Zero Set と、未聴だった Kraftwerk "Radio Activity" を見繕って、概ね目論見通りに救われた。

 

「癒し」の語を蔑むのは、これが音楽ビジネスのタグだからだし、意味を正確に定義せぬまま安直に使う者への苛立ちだし、なにより、音楽を何かの「用途」に供する料簡への不服だ。

 

私はお酒を飲まない。ドラッグは一切やったことがないし今後もやりたいと思わないしやらない。

お酒を召し上がったうえで音楽をお聴きになる方が多いのにびっくりする。正しい鑑賞の妨げでしかないと思ってる。でもお酒の効果があって初めて増幅されて聴こえ始める音があるのかも知れない。下戸に発言権はない。

ドラッグと音楽作品の関係についてはかねがね疑問に思ってることがある。

サイケとは、ドラッグをキメたうえで聴く音楽のことなのか、あるいはドラッグで聴こえるものを音楽で模倣するものなのか。

キメたうえで聴けば、どんな音楽でもサイケに聴こえるわけではなくて、適した音楽があるのか?

ドラッグ体験そのものが目的で音楽はその効果を補助するのか? それとも、ドラッグの世界を、ドラッグ体験の無い者向けに翻訳してみせるのがサイケなのか?

ドラッグ体験の無い私がサイケを聴いても、つまるところ聴くべきことはなにも聴こえていないのか? 非サイケと同じ聴き方で、作曲として評価し面白がるのは、間違いなのか?

私は、ひとまずは、コンポジション至上で、「用途」のためにこれが蔑ろにされるのは容認できない、という立場だが、音楽の存在意義をより深く問い直すのも忘れてはならない。音楽の本来持つパワーをコンポジションが馴化し抜け殻化することの方こそ道を見失ってるし罪悪なのかも知れない。料簡はいつも最大に自由に保っていなければならない。

 

以前 twerk という単語を見た時、てっきり Kraftwerk のことだと思った。weblog → blog の法則だと。

表記だが、「クラフトワーク」「コンラッド・シュニッツラー」は「クラフトヴァーク」「コンラート・シュニッツラー」ではダメなんだろうか?

Quatermass は従来「クォーターマス」と呼ばれてるが、「クエイタマス」じゃダメなのか?

ベルアン関係でいうと、「フランボロー・ヘッド」は「フランバラ・ヘッド」、「ピカピカ・ティート」は「ピカピカ・ティアート」だと思う。

最初に買ったCD

私が自分で買った最初のCDは、ストラヴィンスキーペトルーシカ」ブレーズ/クリーヴランドか、King Crimson "Starless and Bible Black" か、どちらか。

私はプログレのCDをあまり買わない人だった。叔母の書斎でアナログ盤を聴いて過ごして判った気になってたし、メジャーどころに対しては、熱意のピークが、自分でCDを買い始めるタイミングとずれていた。何を隠そうクリムゾンは "Starless and Bible Black" と "Lizard" しか持ってない。

"Starless and Bible Black" のCDのエディションが何種類あるか知らない。私が買ったのは(いま手許に無いので不確かだけど)1989年にフリップ御大御自らリマスターした、当時 'The Definitive Edition(決定版)'と目されたものだと思う(もう1人、共同作業者名がクレディットされてた気がする)。 

 

このアルバムについても私はアナログ盤で馴染んでた。なのでリマスターには違和感を覚える点が、2つ、あった。 

①ノイズリダクションの行き過ぎ。ライドシンバルの減衰のしっぽがフッと立ち消えになり、'We'll Let You Know' 前半のような静かな箇所でこれが目立つ。 

② 'The Mincer' の終わり方。

この曲は最後、演奏続行中にテープが尽きたかのように、一瞬音像が揺れて強制終了する。この突然の中断が積極的にかっこいいのに、リマスターでは、ここにわざわざリヴァーブが掛けられている。誤魔化すように。「テープ切れ」が消極評価の対象であるかのように。

というか、「テープ上にリヴァーブ処理を含むミックスが録音されてる」場合と「リヴァーブの中にテープ再生がある」場合とでは、「テープ切れ」の音楽的意味付けが全く違ってくるではないか。

前者の場合は、「テープ切れ」によって、演奏、録音、ミックス、の「全てが終わる」。

後者の場合は、「テープ切れ」含めて「テープ演奏」として扱うからこそ、そこにリヴァーブを掛ける。フリップは「全ての終わり」の中にいて諸共に消されるのではなく、「全ての終わり」という「作品」の外にいて、これを管理する。

この曲はアナログ盤でいうとA面ラストの曲で、この曲の終わり方が乃ちこの面の終わり方。

  

このエディション以前の、アナログ盤と同じマスターのCDは無いのか?と Discogs を見ると、どうやら最初のCD化は1987年で、これが私の求めるものなのかも知れない。まあ総合的に見てリマスターの方が優れてるにちがいないけど。

  

↓これは、いつのエディションか判らないけど、私の聴きたかったのと同じ終わり方だ。

www.youtube.com

 

 ↓これが私のCDと同じリマスターかな?

www.youtube.com

  

クリムゾン中このアルバムだけ買ったのは一番好きだから("Lizard" は 'Lady Of The Dancing Water' を耳コピする必要から買った)。

以前アメブロでも書いたけど、私は『宮殿』、ことに「エピタフ」が嫌いだ。

①陳腐なコード進行を

②4×4×4の硬直した尺の大枠の中で

③白玉コードで埋めて

④繰返す

⑤雰囲気の

音楽。

つまり私にとって最も縁遠い「叙情派シンフォ」の元祖にして典型。

叔母の書斎で、プログレの名盤を、それぞれの独自の創意にびっくりしつつ聴き進んで、『宮殿』に行き当たる。でも「まとめ過ぎ」でワクワクしなくて、以来今に至るまで、ピンと来たことがない。