S / N 比

若い頃は精神生活に妥協が無かった。

文章でも、「書く」ことについて十全かつ厳密だっただけでなく、「書かない」ことについて徹底してた。

接続詞を使わないことにこだわった。論旨を明確に示し得ていれば、接続詞を置かなくてもその前後の関係が、順接なのか逆接なのか、因果なのか並列なのか、読めば判る、と。

それは相手の読解力を信用することでもあって、接続詞の補助が必要になるのは、論旨の明確さに問題がある、誤魔化しや辻褄合わせが行われている場合であり、同時に、読者を、補助や手加減を必要とする、読解力不全の者と見做す「無礼」だ、と、頑なで、しばしば歪な、こだわり方をしてた。

共有してると見込まれる前提事項を省略するのは当然だが、若い頃は、その刈込みの程度が最大で、何も伝わってなかったことがあとで判明する、のが慣例だった。テクニカル・タームを注釈なしに使う、とか。

 

読者といってもプライヴェートの友人です。引越しがあるたびに、前の土地の友人との文通が始まる。「あったこと」ではなく「考えたこと」を、随筆か、アフォリズムの連続にして、送りつける。文章力を「たまには普通に近況報告をしても、バチは当たらないと思います」と褒められたが、それは、友人への私信の場合でも、必ず下書きをし、推敲し、完璧に文章を組み立ててから「清書」してたからなのだった。

文章の S / N 比が、今は、若い頃よりも上がってる自覚があるが、注釈不足ゆえの意味の通りにくさでご迷惑をお掛けしてることもあるらしいのを、時々知る。すみません。

 

矛盾について。

言葉を、「辻褄合わせ」を行うために発する人っている。私自身陥ってると思う。言葉の運びにこだわることよって、繋がり流れてるように見せかけ、書いてる本人も繋がり流れてるように思い込む。辻褄合わせの誘惑には常に晒されている。

書いてる最中に矛盾なり論の進め方の無理なりを自ら発見した時は、文章全体を破棄するか、または矛盾を矛盾のまま正直に提出するか、しかない。

矛盾を矛盾のまま放り出してツッコミ待ち、というのは当ブログの通常です。

矛盾ゆえに、次の議論の契機になり得る、ということがあるか判りませんが。

sakaifomalhaut(酒井康志): Miku Hatsune sings "Kew. Rhone."

酒井康志氏による、初音ミクが歌う "Kew. Rhone."!!

酒井氏は作曲家、鍵盤楽器奏者、テルミン奏者、バンド 'FOMALHAUT' のメンバー(「リーダー」というご紹介で正しいでしょうか?)、バルトーク「ミクロコスモス」を全曲、ミクに歌わせてしまった方でもあります。

"Kew. Rhone." をお取り上げ下さったことだけでも狂喜ですが、この動画を拝見して初めて、この詩の前半が "Kew. Rhone." に含まれる7文字だけを使って作られていること、最後の行が見事な回文になっていること、に気付きました。

 

(Who?)

We who knew no woe

We who were her hero

(When?)

we were on her knee

When we knew her

When we were one

Where?

Kew.Rhône.

 

We won renown

How?

We were her worker

We won honor enow

When we knew her

When we were one

Where?

Kew.Rhône.

 

Not a set animal

Not a set animal, laminates

Laminates a tone of

A set animal

Animal, laminates

A set animal

Animal, laminates

Laminates a tone of sleep

A tone of sleep

 

Peel's foe

Not a set animal

Laminates a tone of sleep

(いくつかのサイトに載ってる歌詞はそれぞれ部分的に怪しく、適宜参照しました)

 

原曲。酒井氏のカヴァーが如何に完全であることか!!(と申し上げられるほど、私自身はこの曲を把握していないのですが)

 

なお「フォーマルハウト Fomalhaut」はみなみのうお座のα星、視等級1.16、輝星の少ない秋の南天でひときわ目立ちます。

この10数度南、2等星が2つ横に並んであり、地平近く、建物の間に見え隠れしながら夜道をついて来ます。思いがけず明るい星の存在に、つる座のα星とβ星だ、と思い当たるのには時間を要します。

一緒にしてくれるな

いっぱんにどの作曲家についても、「〇〇のファン」という括りが価値の共有を保証しない。その作曲家の、どこを、どう、聴いてるのか、好きなのか。

ではあるけれども、ファンを自称する者同士の会話に最も齟齬を生じるのは、ドビュッシーだ。

 

 

それはドビュッシーの音楽の多義性に原因する。

 

ドビュッシーは従来「印象主義音楽の始祖」と呼ばれてきた。この呼称は、これを用いる者の意識の正確さ深さに応じて、まったく無意味ではない。

 

私が記憶してたのは、

〈「印象主義」という言葉がドビュッシーに対して使われた最初は、「ローマ大賞」に提出した『春』への教授陣の評*1

「氏の作曲に凡庸さはなくむしろ非常に独自だが、氏は氏の『印象主義』から身を守らねばならない」

だった〉

なのだが、そういう内容の記事をウェブ上に咄嗟に見つけられない。美術の場合と同様、音楽でも元来「印象主義」は貶し言葉だった、という記憶。

 

印象主義音楽」を「『気分』や『雰囲気』を重視する音楽」と説明する記事があり、困ったもんだ。Wiki もそう。

「フランス音楽のエスプリ」と銘打つ CD のシリーズにドビュッシーが含まれてると腹が立つ。ドビュッシーが「フランス的」なのではなく、ぎゃくにドビュッシーの影響が絶大で、のちのフランス音楽が「ドビュッシー的」にならざるを得なかったのだ。そしてそれを「エスプリ」という音楽的には凡そ何も意味しない言葉で括る安直。

気分や雰囲気のためということは、ドビュッシー倉本裕基と同じ聴き方で聴くということで、じっさいそういう聴き手は多いんだろう。

 

印象主義」が音楽を語る用語であり得るとすれば、和声の、形式からの「自由」を語る場合だけだ。

曲を進行させる原理としての和声ではなく、カデンツの大枠から自由になった和声が、自律的に移ろい、瞬間瞬間の響きとして充実する。

 

 

ドビュッシーは思潮的には「象徴主義」だ、ともいわれる。「印象主義」呼ばわりしつつモネを連想してたように、「象徴主義」からルドンなりデルヴィルなりを思い併せ、深層心理的世界、官能に陶酔する。

Wiki の定義する「印象主義」と、これが表層的だとして、このイメージを克服すべく持ち出される「ドビュッシー象徴主義論」とは、雰囲気に浸る点で同じで、私はどちらにも与しない。

 

 

私のドビュッシーは「聴覚の自由の権化」としてのドビュッシーだ。音組織について、和声的にカデンツからの自由、ことによると音律的に平均律をも前提と見做してなかったと見える、自由。

パリ万博でジャワのガムランにびっくりし得る耳。

自分の耳の責任で、広大無辺の音の世界から、音楽を自由に聴き取って来てよいのだ、と示して見せたことが、彼が現代音楽を拓いたといわれる所以だ。

ドビュッシーを好きになったら、次に好きになるのは、カプレやブーランジェではなくヴァレーズ、の筈なのだ。

 

ドビュッシーを「どう聴くか」と「どの曲を好きか」とには相関がある。

アラベスク」「月の光」「亜麻色の髪の乙女」が殊更有名曲になってることは、端的に不可解だ。

 

 

ドビュッシーからは私は寧ろソクラテスを思い併せる。

彼に付されたタグは何だっけ?

高校の社会科の教科書には「問答法」「無知の知」は出てきた気がする。で、プラトンの師で、西洋合理主義哲学の大元、みたいなイメージになってた記憶がある。

でも彼については「ダイモンの声」こそ最重要タグではないか?よく判らないけど。

ソクラテスの多義性から、のちの哲学者たちがそれぞれ何を継承し発展させるか(あるいは矮小化し消費しバズワード化するか)。

ドビュッシーもそういう存在だと思う。

*1:2018年09月20日追記

「留学作品『春』への芸術院(アンスティテュ)会員の評」というのが正しいみたい。