「おばさん」の定義

テレ東の「Vの流儀」を毎週見てた。

Wiki によるとこの番組名での放送は2010年10月5日~2012年3月27日なので、もう5~6年前か…(Wikipedia「ロック兄弟」の項。ちなみに私は「ロック兄弟」という番組名を今回初めて知った)

V系がものすごく好きという自覚はなかったがハマってた。むしろ自覚がないことこそが積極的に、「ハマる」「依存症」の要件なのではないか。

ムックとカイキゲッショクは好きだった。

 

各バンド独自の音楽性があるんだけど、サビはどのバンドも同じに聴こえた。ポップさとか、コード進行とか。

CM の時間には、各バンドの新曲の15秒 CM がたてつづけに流れるのだが、使われるのはサビの部分だから、全部同じに聴こえてしまって、惜しい、と思った。

 

 

メタルに詳しい方とご一緒して、新しめの曲を聴かせて頂くことがある。

決して嫌いじゃないんだけど、どれも同じに聴こえてしまう。

作曲としても、リフの作り方とか、「デス声」と「クリーンヴォイス3度ハモり」を交互にやるとか、なぜこうも自ら型に嵌まりたがるのか?

サウンドプロダクション的にも、音圧とか質感が、千篇一律だ。

 

と感じるのは私の側の問題で、部外者だからだし、注意深い聴き手じゃないからなんだろう。

型に沿いながらの、その中での差異。そこに気付けない私が「おばさん」だということなんだと思う。

静謐は信頼

国で括って、イギリスはこう、アメリカはこう、と乱暴に一般化して語りたくないのだが、ロックの聴衆の鑑賞態度については、あまりに画然と、イギリスとアメリカとの間に違いがあると見える。

アメリカの聴き手は、音楽を聴きに来てるのではなく、騒ぎに来てるように見える。盛り上がるのが目的だから、その道具としての音楽を焚きつけるために、声も出すし指笛も鳴らすし拍手もする。

私自身は、音楽が鳴ってる時に聴き手が音を出すことがあり得る、というのが信じられない。

 

いっぽうロンドンでは。

歌い出しの0分52秒目からの8秒間こそ歓声と拍手が起きてるし、最後は音楽が完全に鳴りやむ前に拍手が湧きあがるとはいえ、この場を支配するのは「静謐」だ。

演奏について、「音が鳴ってる」というより「静謐が鳴ってる」「静謐が、緊張をもって、持続してる」と感じる。慎重に執り行われる儀式のようだ。

そして演奏者聴衆含めてこれだけの人数が一堂に会してて、その成員ひとりひとり全員がこの6分間静謐を守り、「場」を持続してることは、奇跡だ、と思う。

そこにあるのは「信頼」だ。全員が、奇跡の完遂を望み、そのために協力する、その意志の共有において、お互いを信頼する。

 

ということを思い出したのは、この動画を見たから。

場のあまりの静かさに、録音のために非公開でホールを使えて羨ましい、と思ってると、最後に聴衆の拍手が鳴り出して、びっくりした。

Jaki Liebezeit

ヤキ・リーベツァイトが1月22日に亡くなっていたのを、今日になって知りました。

この曲のタイトルは、実家のアナログ盤の、裏ジャケでは 'Bel Air'、レーベルでは 'Spare A Light' とリストされていました。

裏打ちバスドラムにびっくりしました。

 

小6~中1のナイーヴな審美眼にとって、クラウトロックの、ときに造形がグズグズのサイケや、無機質なエレクトロ・ビートの反復は、どう聴けばいいものか戸惑いましたが、Faust 'Why Don't You Eat Carrots' と Can 'Soup' には大いにピンと来て、それを契機にクラウトロックは私にとって親密なものになりました。